2004年05月18日(火) |
今夜もまた真夜中に目を覚ます。この数日、まともに眠った覚えがない。だから今日はきっと朝まで眠れるだろうと思っていたのだけれど、やっぱり目が覚めた。でもそれは、一握りの安堵を私の中に呼び起こす。何故だろう、眠りたいと思っているのに、やっぱりこうして目が覚めるという現実、そのことに、私は何故かしらほっとしている。 日曜日、娘と二人で近所を歩く。しとしとと雨の降る日で、私たちはそれぞれに傘をさす。二人ともの傘の骨が、一つずつ折れている。先日雨が降っているのを承知で自転車で走り転んだその拍子に、折れたものだ。私たちはそんな、ちょっと歪んだ傘をさしてぽつぽつと歩く。 前住んでいた家の、裏の公園の周囲を歩く。そして知る。もう紫陽花が色に染まる時期だったのかと。それは淡い水色で、何処までも透明で、雨粒をくっつけた花びらはまっすぐに天を向いている。 試しにと池へ足を運ぶ。覗き込めばそこには、かつて見たのと似通った光景が在る。尻尾を必死に震わせて泳ぐ夥しい数のおたまじゃくし。私たちはしばらく、おたまじゃくしの様子に見入る。ママ、みんなこれカエルさんになるの? みんな、は、無理だろうなぁ。どうして? そしたらここはカエルさんでいっぱいになるの? うーん、みんなカエルさんになるのは多分無理だよ。この中でほんの数匹だけが、きっとカエルになるんだよ。どうして? 死んじゃうの? 死ぬ、そうだねぇ、死んじゃうんだろうねぇ、他のもっと強い者に食べられちゃったり、そもそもこの池の水が掃除とかでまた抜かれちゃったら、おたまじゃくしはいっぺんに死んじゃうもんね。かわいそうね。そうだね。でもね、きっとこのおたまじゃくしはカエルさんになるんだよ。どうして? だってね、強そうだから。 強そうだから。そんな彼女の言葉から私はふっと思う。強い者ばかりが生き残れるほど世の中は甘くない。かといって弱い者が何処までも生き残れるほどこの世の中はやさしくない。適当に弱くて適当に強くて、適当にしなやかで適当にしぶとくて。そんな幾つかの要素を備え持った者が、最後にきっと生き残る。そんなことを私が思い巡らしている間にも、おたまじゃくしは泳ぎ続ける。自分が生き残ると全身で信じきって。それはどうなんだろう、哀れなのだろうか、悲惨なのだろうか。 そのどちらでもない。多分きっと。 信じているから生きていける。自分は生き残ると信じているからこそ、今日を明日を生きていける。それは多分、神様から貰った、この世に生きているすべての存在にとっての希望のようなもの。 私が夜闇の中、再び横になろうとすると、途端に夢に襲われる。それは夥しい数の、蜘蛛のような巨大な虫と、ごきぶりのような地を這う虫とで埋め尽くされ、私は窒息しそうになる。身を起こし周囲を見まわす。何処にもいない。彼らは何処にもいない、現実世界には。私の中にあるだけで、これは幻なのだ。私は自分にそう言いきかせる。けれど妄想はとまらない。まるで今私のこの腕を虫が這い上がってくるような感覚に襲われ、私は急いでトイレに駆け込む。そこで偶然にも、本物の虫と遭遇してしまい、私は悲鳴を上げる。 咄嗟に手に持ったタオルで虫を叩きトイレの中に落し込み、あっぷあっぷしているその虫を私は非情にも流してしまう。もう流れて虫はそこからいなくなったのに、私には、その虫が今にも這い上がってきて、私めがけて飛んできそうな錯覚に襲われる。だから私は何度も水を流す。流すのだけれど、その錯覚はとまらない。何処までも私にまとわりついてくる。だから私は思いっきり脇にあった洗剤をトイレの水に流し込む。これで死んでくれるだろうか。これで奴は死んでくれるだろうか。死んでくれ、お願いだから死んでくれ。もう二度とここに姿を現すな。それがどれだけ残酷な思いか身勝手な思いか私は思い知りつつ、でも、そう思わずにはいられない。お願いだから、私の見る妄想や幻想は、そこにだけとどまっておくれ。現実にはどうか、なり得ないでおくれ。 寝床に戻り、娘の顔をじっと覗き込む。すぅすぅと規則正しい寝息が聞えてくる。私は彼女の眠りを邪魔しないように、そっと彼女の額を撫でる。頬を撫でる。 大丈夫、現実がちゃんとここに在る。彼女はあたたかく、ちゃんとここに生きている。だから大丈夫。私は彼女を守るためになら、何にだってなれる。この恐ろしい虫たちと戦うことなんて、彼女の存在を前にしたら、これっぽっちのこと、どうってことない。 私はそうして、また思いをはせる。ようやく一人でさせるようになった傘を両手でしっかと握りながら歩く娘がそこには在る。どうしても歩く速度が遅くなってしまう彼女は、とうとう片手を傘の柄から離し、その手でもって私の左手を握る。私よりずっとあたたかい手。私の掌の中にすっぽり収まってしまうその小さな手。私は、いとおしくなって、何処までも何処までもその手を握って歩いていきたい気持ちになる。でもそれは無理というもの。いつしか彼女の手は私の手を越えて、別の誰かの手を握る。或いは、私から遠く離れて、彼女自身の世界を掴むためにこの空に伸ばされる。その時はいつ来るのだろう。もうしばらくは、この手のぬくもりが、私の手の中にありますように。 壁のあちこちの染みが、虫に見えて来る。あちらこちらにある染みのすべてがすべて、虫になる。私は頭をぶるんぶるんと振ってみる。それでも虫は消え去らない。ふっと、虫が私の世界を食べてゆく音を聞いた。きゃしゃきゃしゃ。きゃしゃきゃしゃ、と、彼らの口が私の世界にかぶりつく。かしゃきゃしゃ、かしゃきゃしゃ、彼らがむさぼり食うその音が、どんどん大きくなる。私の背筋がぶるんと震える。私はとうとう虫に食われてしまうのだろうか。 私は起き上がって、できるだけ何も見ないように俯きながら台所へ行き、作り置きしてあったお茶をごくりと飲み干す。大丈夫、今だけだ、今だけだ、朝になればみんな消える。次の夜また虫が現れるとしても、それでも、朝になれば虫は一度は消えるのだ。だから大丈夫。私は虫に食われた世界であろうと何であろうと、ただ生きるのみ。何処までだって生き延びてやる。 窓の外は、しんと静まり返っている。昼間のあの強風は一体何処に隠れたのだろう。街路樹の葉一枚、そよりとも揺れる気配はない。そして気づく、今夜もあの街燈はいつものあの場所に佇んでいる。何処にでもあるような街燈、でも、私が目を上げれば、確かにそこに在ってくれるその街燈。私はそのことに安堵する。 そうだ、虫に食われようと地割れを起こそうと、私の世界はちゃんと在る。それが他人とどう違っていようと、それでも私の世界がこの世から消滅することはない。私がここに在る限り。私が生きている限り。 街燈が黙ってそのことを教えてくれる。大丈夫、何が起ころうと、世界はここに在る。 |
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