2004年05月19日(水) |
夜明けを眺めるのを楽しみにしていたけれども、徐々に空の闇色が薄らんでいっても、そこには雲が一面に広がり、動く気配はまったく見られない。昨日もそうだった。試しに、私は昨日と同じように玄関をそっと開けてみる。玄関を開けると真正面に、埋立地に立つ高層ビルが見えるのだけれども、そのビルの上方は、すっかり雲の中だった、それが昨日。そして今朝は。ビルは一応その姿をあらわにしているけれども、重たげな雲はやっぱり空一面を覆っており。私は音を立てないように、そっと玄関を閉める。 いつ降り出してもおかしくはない空模様を何度も見上げながら、私は娘を急かして保育園へ自転車を走らせる。「ママ、お迎え遅くしてね」、娘はにっと笑いながらそんなことを言い、階段を上がってゆく。早くお迎えに来てねと言うのが普通だろうに、なぜか娘はいつもそんなことを言う。そして、こちらはサービスのつもりで早い時間に迎えに行くと文句を言われる。もっと遅く来てよー!と。保育園の先生も苦笑いだ。 一人になった私は、勢い良く角を曲がり自転車のスピードを上げる。もうしばらく、雨は降らないでいてほしい。私はそう心の中で呟きながらなおも自転車を走ら続ける。自動車を避けて裏道を選び、信号を潜り抜け埋立地へ。決めていた、今日はモミジフウに会いにゆく、と。 本当は、もっと会いたい樹があった。駅からの急坂を上がる途中にある、あの大樹だ。病にかかり、それでも必死に新芽を出し、じっと大地に根を張っていたあの樹。包帯もとれ、もう大丈夫なのかと思っていたが、思わしくないらしい。とうとう先日、残っていた枝のほとんどが切り落とされた。今は、太い一本の幹と、それにへばりつくように生える細い芽ばかりになってしまった。彼は再生するだろうか。もうこのまま、立ち枯れてゆくのだろうか。いや、信じよう、彼は再生する、いつかきっと。そのときはきっと。 美術館へ続くゆるい石畳の入り口が見えてきた。あそこにモミジフウがいる。私は回り続けようとする自転車の車輪にブレーキをかける。 モミジフウ。見上げれば、あのぼんぼりが、まだまだ緑色と言っていいだろうぼんぼりが、あちこちからぶら下がっている。そして古いぼんぼりも。もう焦茶色の硬い塊になったぼんぼりも緑色のぼんぼりも、同じように樹はぶらさげて、しんしんとそこに立っている。そんな樹だから私はなおさら好きなのだ。何もかもを新しくするのではなく、古いものも新しいものもどちらもを受け止めて抱きとめて呼吸しているこの樹が。見上げれば、赤子の手に似た小さき葉々と、先に生まれたのだろうもうずいぶん大きくなった葉々とが、交じり合いながらさやさやと風に揺れる。私はその樹の下に立つ。そして、幹に腕をそっと回す。 樹とそうして抱き合っていると、何もかもがどうでもいい気持ちになってくる。すべてを受け止め、でもそれは荷物ではなく、ゆっくりと後ろへ流れ去ってゆく。がさがさの幹に頬擦りしてみる。通行人の誰彼がこちらを見ている、そんな気配が私の背中や頬に伝わる。でも、いい。そんなものはどうでもいい。私は、今、樹によって癒されてゆく。 ようやく腕を解き、私は樹を再び見上げる。そして、今度は右の掌で幹に触れてみる。 娘の手とは程遠いぬくもり。それでもこれはやっぱりぬくもりなのだ。ほわんと掌と樹皮との間に何かが滲み出してくる。目を閉じて耳を澄ますと、とくんとくんと脈打つ音が聞えてきそうな錯覚を覚える。私はじっと目を閉じ、幹に触れ続けている。 どのくらいそうしていたのだろう。ふっと空を見上げると、さっきよりも雲は色濃く、そして重たげな様子を見せている。モミジフウの向こうに広がる空。出口は何処に? 雲に一面覆われた空。出口は? 入り口は? その扉は何処に? そんなことを思いながら、もう一度モミジフウを見上げる。私はようやく、掌を離す。そうっと、そうっと、ゆっくりと。 離した掌には幹の跡がほんのりと残っている。でも、それは冷たくなどない、むしろあたたかい。そう、だって私は、この掌を通して、彼のエネルギーを分けてもらったのだから。開いていた掌を試しにぐっと握り締めてみる。彼からのエネルギーはこれっぽっちも逃げ出したりせず、私の掌にちゃんと息づいていることを知る。 大丈夫、私の世界がいくら虫に蝕まれようと、大丈夫、私はここに在る。大地に根ざしたモミジフウのそのてっぺんは、背をどう伸ばそうと私の手が触れることはできない。まっすぐに天を指し、何も言わず、じっとここに在る。それが樹。どんなに迷い悩んでも、彼らはきっと天を指差す。こうやってまっすぐに。 だから大丈夫、そんな彼から私は今エネルギーを分けてもらったのだから、大丈夫。今夜だってちゃんと乗り越えていける。 軽く結わいていた髪の毛を解き、それじゃまたね、とモミジフウに別れを告げ、私は再び自転車に乗る。解いた髪の毛が風とじゃれ合う。私の頬やうなじを、いかにも楽しげにくすぐってくる。それも今は心地よくて、私はペダルを漕ぐ足にもっと力を込めてみる。そして、ハンドルを握る両手にも、もう少し力を込める。あぁ、あたたかい。それは、私の体温のせいじゃない、モミジフウからもらったエネルギーがそこにあるから。ちゃんと在るから。 空はどんどん暗くなってゆく。じきに降り出すのだろう雨に思いを馳せる。雨は何を思いながらこの世界を濡らすのだろう。知らないうちに溜まってゆくこの世界の澱を洗い流すために降るのだろうか。だとしたら私は、思いきり雨を浴びたい。これでもかと降る土砂降りの、その雨を浴びてみたい。何度でも、何度でも。 そのとき、私の頬に一粒の雨粒が。やぁ、降って来たね。もっと勢いよく降ったっていいよ、まったく勝手なことをつらつらと心で呟きながら、でも私の口元は笑っている。だって、今私はあたたかい。今私は満たされている。溢れそうになるほど心が満たされて、そして笑っている。 さぁ、家に帰ろう。もう怖くない。私は大丈夫。 |
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