2005年02月25日(金) |
昨夜中、ふと窓の外を見ると、雨が雪に変わる瞬間だった。いつこの瞬間に居合わせても不思議に思う。雨から雪へ、雪から雨へ変わる瞬間というのは、どうしてこうも鮮やかに見事にふわりと変化するのだろう。決してとどまることのない川の流れのように、雨から雪へ、雪から雨へ、何の躊躇いもなくすっと変化する。私はしばし、見惚れてしまう。でき得るなら、あの雪の舞い降りて来る真中に座って、ただひたすら上を見上げていたい。そうしてやがて私の足や手が雪に埋もれていく、その感覚はどんなだろう、味わってみたい、そんなことを思う。 気温がどんどん下がってゆくのが肌を通して感じられる。私は開けている窓を半分だけに閉める。そして、眠っている娘の顔を見に布団へ近づく。 眠るまでぽろぽろと泣いていた目はぷくりと腫れている。そっと指先で触れる。かわいそうに。そう思うけれども、思ったからとて彼女の腫れた瞼を私が元に戻してやれるわけでもない。彼女の頭を何度か撫でて、私はまた、窓の近くの椅子に座る。
その日、娘が持って帰って来た保育園の先生との連絡帖には、いつもの倍以上の先生からの言葉が記されていた。何かあったんだなと思いながらそれを読む。読み終えて、私はもう一度読み直す。四度ほど読み直し、私は、着替えている娘に目をやる。 ねぇみう、ちょっと来て。みうが私のそばにやってくる。ねぇ、みう、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。なぁに?
娘が帰った後、お友達の一人が茶封筒を持っていることに保育園の先生が気づいた。見るとそこには、みうちゃんへSより、と書いてあり、そのお友達とは関係のないものだということが分かった。先生はお友達に尋ねる。これ、どうしたの? みうちゃんのじゃないの? するとお友達が答えた。みうちゃんがいらないからあげるって言った。その翌日、先生がみうにそのことを尋ねてみると、だっていらないんだもん、と答えたという。なのに、娘はいろんなお友達に、みうにお手紙書いてきてくれた? と尋ねて回っている。手紙をくれ、と言うのに、手紙をもらうといらないと誰かにあげてしまう。これじゃぁ手紙を書いたお友達が悲しむ。先生は娘に注意し、娘も先生ともうしないという約束をした、そのように連絡帳には記してあった。 ねぇみう、先生がね、こういうことを書いてきてるのだけれども、本当なの? …。 先生とどんなふうにお話したか、ママに教えてくれる? 覚えてないよ。 覚えてないの? 何にも? うん、覚えてない。 じゃぁ、ママが聞くから、どうだったか教えて。いい? うん。 Sちゃんがみうにお手紙くれたんだって? うん。 そのお手紙、もらってその後どうしたの? … そのお手紙がね、ここにあるんだけど、どうしてもらったみうが持っていなくて、お手紙がここにあるのかな? …あげちゃった。 あげちゃったの? 誰に? Yちゃん おかしいなぁ、だってこのお手紙は、みうちゃんへって書いてある。Yちゃんへって書いてないよ。みうへのお手紙でしょう? うん。でも、いらないんだもん。 どうしていらないの? いらないから。 …。じゃぁみう、みうがたとえばKちゃんにお手紙書いて、そのお手紙をKちゃんがいらないって誰かにあげちゃったら、みうはどう思う? かなしい。 かなしいよねぇ、ママもそう思う。でも、みうはSちゃんからのお手紙をいらないからってYちゃんにあげちゃったんだよね。このことをSちゃんが知ったら、どう思う? かなしくなる。 うん、かなしくなるね。 …。 自分がされたら悲しくなることを、お友達にしちゃぁいけないよ。ママはそう思うんだけど、みうはどう思う? …しちゃだめ。 でも、みうはそれをしちゃったんだよね。だとしたら、どうすればいい? ごめんなさい。 ママにごめんなさいって言ってもしょうがないよね。お友達に言わなくちゃ。 ごめんなさい。 ママにごめんなさいって言わなくてもいいのよ。ねぇみう、この間ママ話したよね? みうのお誕生日にお友達がプレゼントをくれたでしょ、あれは、お友達だからプレゼントをくれたんだよね、そういうお友達を大事にできないんじゃぁ、お友達いなくなっちゃうよね。違う? うん。 みうは、お友達いらないの? お友達、いる。 じゃぁ、みう、お友達は大事にしなくちゃいけないよね。ママなんてさあ、お友達からもらったお手紙、ずっととってあるよ、今もいっぱい残ってる。そういうの、大事だなぁって思うよ。 ママ、ごめんなさい。 うん。じゃぁ、みう、お手紙書こうか。 うん。 Sちゃんと、それから今日お手紙くれたTちゃんに、お返事書こうね。 うん、今書く。 うん、そうしな。ご飯食べるのはそれからでいいや。 うん。
そうして娘はお友達二人にお手紙を書いた。封筒にはいっぱいシールを貼って、明日これ渡すから忘れないようにと、テーブルの真中に置いた。ようやく夕飯の時間になったけれども、のびきったスパゲティはおいしくなくて、二人とも残してしまった。でも二人とも、もう笑っていた。
話途中から彼女はぽろぽろと泣いていた。泣き出した顔を見て、私は何度も、もういいよと抱きしめたくなったことか。でも、ちゃんと最後まで彼女と話したかった。いや、彼女に話したかった。お友達は大切にして欲しいということ。 眠る前に、彼女はまた思い出して、ぽろぽろと泣いていた。だから私は何度も頭を撫でた。 このことは、もしかしたらすぐに忘れられてしまうことかもしれない。まだ幼い彼女の記憶には、殆ど残らないかもしれない。それならそれでいい、そのたびに私は彼女に伝えていきたいと思う。友達は大切にしようね、ということを。だって、私がここに今在るのは、親でも恋人でもない、友達こそが私をずっと支え続けてくれたあの日々のおかげだから。 ようやく眠り始めた彼女の頭を撫でながら、小さい声で話しかけてみる。ねぇみう、みうがじきにママなんか嫌いとか言い始めて、私のもとを飛び出してどっかへ行っちゃう日が来ると思うけど、そうなったとき何があなたを支えてくれるかといったら、あなたが心通わせられるお友達なんだよ、だからね、大事にしようね、ね。 それにね、みう、そうやってあなたがお友達を大切にしたとして。それでもね、たとえばこれから先、みうがお友達に裏切られること、傷つけられることはいっぱいあるんだろうと思う。もしそうだとしても、傷つけられたから傷つけ返すとか、裏切られたから裏切り返すなんて、そんなことはやめよう。何の意味もない。相手にこうされたから自分もこうする、なんて構図はいらない。自分はこうしたいからこうする、と、その自分自身の意志をこそ、大事にしてほしい。そんな生き方は、いいことばっかりじゃぁないと思うけど、それでもね、そこから得るものはいっぱいあるんだよ。
今朝、二人とも寝坊した。娘の瞼は腫れていて、いつものきれいな二重は奥二重のようになってしまっていた。私も寝不足で、顔が何となく浮腫んでいる。 急いで仕度をして、急いで玄関を出る。 ママ! お手紙かばんにいれてくれた? ちゃんと入ってるよ! そう言って、二人で階段を駆け下りる。自転車のペダルを思いきり漕ぐ。私たちを取り囲む家々の屋根には、うっすらと雪が積もっている。すれ違う人の息はみんな白く、その背中はちょっと丸い。私たちはその人たちの間を歌を歌いながら自転車で走り過ぎる。ゴミの集積所には今日もまた烏が群がっている。それを避けるように少しハンドルを傾けると同時に、娘の声が響く。からすー! むこうへいきなさーいっ! ごみちらかしたらいけないんだよー! 先を歩いていた老婦人が驚いて振り返り、娘の顔を見てぷっと笑う。私も吹き出しそうになりながら、その老婦人に軽く会釈をして通り過ぎる。坂の右側の崖には雪がほんのりと、まだら模様に積もっている。 抱きしめあってキスをして、彼女は保育園の階段をとんとんと駆け上がっていく。先生に毎朝の挨拶をして、私は保育園のドアを飛び出す。 一日がまた、そうして始まる。
雨も雪もやんだ街は、重たげな鼠色の雲を抱き、どこまでもどこまでも、重暗く続いている。下がり続けているのだろう気温が、窓の隙間からじわじわと流れ込んで来る。それらを適当にあしらいながら、私は仕事を為す。幾つかの電話を受け取り、営業口調で喋ったり、べらんめぇ調で悪態をついたり、そうやってあっという間に時計は夕刻に近づいてゆく。 そして、時々娘のことを思い出す。そして、思う。娘にあれこれ言うことは簡単だ、でも、いくら言ったって本当には伝わらない。伝えられる何かがあるとすればそれは、私が彼女のそばで体現し続けることなんだろう。 発送しなければいけない荷物をたたみ込み、紐をかける。勢いよく結んだ結び目が、かたくかたくひとつの玉を形作っている。再び窓の外を見やると、いつ雨か雪かが落ちてきてもおかしくないような重たげな雲。折り重なるようにして立ち並ぶ家屋の屋根も、じっと沈黙している。もう今日はこの空も雲も割れることはないんだろう。でもきっと、向こうには、太陽が今日も昇っているはず。 そうだ、しっかり立たねば。この世界が今ここに在るのも、私がここに在るから。私が今ここに在るのも、この世界がいつだってここに在ってくれるから。 さぁ時間だ。娘を迎えにゆこう。 |
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