見つめる日々

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2005年02月26日(土) 
 何処までも続く鼠色の雲。空を見上げていた私の首筋を冷たい風がするりと通りぬけ、私は思わず首をすくめる。大気の温度がどんどん下がってきている。と、その時、はらはらと雪が。
 母の庭では、こんな季節にも関わらず、幾つかの草木が花をつけている。すみれ、パンジー、桜草、デルヒニウム、他にも名前の知らない花々が、鮮やかな明るい色を見せる。ムスカリやエリカの美しい花の色の後ろには、沈丁花が控えており、ずいぶんと脹らんだ蕾がみっしりとついている。指でそっと挟むと、意外にもやわらかな感触。その奥の紫陽花は、全ての葉が落ちて裸ん坊ではあるものの、どの枝先にも新芽がついている。黒に近い赤紫色のその芽。日当たりの良い場所の芽はもう緑色に変化している。その芽の上に、咲き誇る花々の上に、雪はちらりちらりと舞い降りる。
 雪は一日中、降ったり止んだりを繰り返す。そのたびに娘が嬌声を上げる。ねぇ雪だるま作れそう? うーん、これじゃぁ作れそうにないねぇ。雪、もっと降れ、もっと降れぇぇぇ。娘の声が、父母と私の間に響き渡る。

 父母が娘の遊び相手になってくれている間、私は久しぶりに本を開く。ここしばらく、浮き沈みが激しくて活字を追うことが殆どできないでいた。心がざわめいているときは、どうやっても言葉が上滑りしてゆく。ちゃんと掴んで私の血肉にするところにまで至ることがとてもできない。だからどんなに活字を欲していても、読むことができないのだ。
 時折窓の外で雪が舞うその姿を目で追いながら、私はようやく久しぶりに、本を辿る。

「人類はなぜ誤ちを犯すのか、なぜ堕落していくのか、なぜ淫らにふるまうのか、なぜ攻撃的で暴力的で狡猾なのか、あなたは不思議に思ったことはないだろうか? 環境や、文化や、親たちを責めるのはよくない。私たちはこの退廃の責任を、他人やなにかの出来事のせいにしたがる。説明したり原因をあげつらうことは安易な逃げ道にすぎない。古代のインド人は、それを業(カルマ)と呼んだ。自分で種を蒔いたものは自分で刈り取るということだ。心理学者たちは問題を親からの影響ということに置きかえてしまう。いわゆる宗教的な人々は、自分たちの教義や信仰にもとづいてあれこれ言う。しかし問題は依然として解決されない。
 また一方では生まれつき心が寛くて、やさしく、責任感の強い人たちがいる。そういう人たちは、環境によっても、どんな圧力を受けても変わらない。どんな喧騒のなかにあっても同じだ。なぜだろう?
 どんな説明もたいした意味をもたない。説明はすべて逃げであり、存在のリアリティを避けることだ。ここが肝心な点だ。説明したり原因をさがすことに浪費されるエネルギーをもってすれば、そのなにかを完全に変革することができる。愛は、時間のなかにも分析のなかにもない。後悔したり、互いに責め合うような泥試合のなかにもない。金銭や地位への欲望がなくなり、自分をずるく偽らないようになったとき、愛はそこに在る。」

「あの子たちは自分たちの傷や悲しみを忘れるのだろうか、それとも逃避や抵抗の手段をこしらえるのだろうか? どうやら、こうした傷を忘れずに持ちつづけることが人間の特徴らしい。そのため、人間の行為が歪められてしまう。人間の心は、害われず、傷つかないままでいることができるだろうか? 害われないこと、それが無垢ということだ。もし害われなければ、あなたは自然に、他人を傷つけないようになるだろう。だが、これは可能だろうか? 私たちが生きている文化は、実に深く精神や心を傷つける。騒音と汚染、攻撃と競争、暴力と教育------、これらすべてが苦悩をもたらすのだ。それでも私たちは、この野蛮な障害だらけの世界で生きなければならない。私たちが世界であり、世界は私たちだ。害われるのは、いったいなんだろうか? みなそれぞれがつくりあげた自分自身のイメージ、それが害われるのだ。奇妙なことに、こうしたイメージは多少の違いはあるが、世界中どこでも同じものだ。あなたが抱いているセルフ・イメージ、その実体は、千マイルも離れた人がもつイメージと同じである。だから、あなたはあの男であり、あの女でもあるのだ。あなたの傷は他の何千という人々の傷だ。あなたは他者なのだ。
 害われないということは、可能だろうか? 傷のあるところ、愛はない。害われたところでは、愛は単なる楽しみにすぎない。もしあなたが害われていない美しさを自分で発見することができたら、そのとき初めて、過去に受けた傷は消えていく。現在が充実しきったとき、過去の重荷も消える。
 …この全体の動きを理解しなさい。ただ単に言葉だけではなく、内奥への洞察をもつことだ。なにひとつ保留することなく、構造の全体に気づきなさい。その真実を見ることによって、あなたはイメージをつくることをやめる。」

「思考の動きはどんなものであれ悲しみを深くする。さまざまな記憶、快楽と苦痛のイメージ、寂しさと涙、自己憐憫や自責の念、こうしたものをともなった思考が悲しみの土壌になっている。いま、語られていることに聴き入りなさい。ただ聴きなさい。過ぎ去ったものの谺(こだま)や圧倒的な悲しみ、そんな責め苦からいかに逃れるかと言うことではなく、あなたの心と全存在で、いま語られていることに聴き入りなさい。あなたの依存心や執着が、悲しみの土壌を用意してきた。自己究明を怠り、それがもたらす美を無視してきたために悲しみが助長されたのだ。一切の自己中心的な行動が、あなたを悲しみの方へ連れてきたのだ。語られていることに、ただ聴き入りなさい。共に留まりなさい。迷い出てはいけない。どのような動きであれ、思考が動けば悲しみを強める。思考は愛ではない。愛は悲しみをもたない。」

(by クリシュナムルティ)

 私がいまだに拘ってしまう幾つかの傷痕を、私はできるならいずれ解放したい。赦して受け容れて、その上で過ぎてきた道端に転がる小石のように、そういえばそんなことがあったね、と、手放してやりたい。そうなるために、私に何が必要なのだろう。そのことを、私はずっと考えている。

 夜、腕の中で眠りかけている娘の体を何とか支えながら自宅に戻り、布団に横たえる。たった一日誰もいなかっただけで、部屋はこんなにも寒々と凍えてしまうのか。少し驚きながら私はストーブをつける。珍しく、寒い寒いと瞼を閉じたまま繰り返す娘の体を、毛布でしっかりくるんでやる。湯たんぽも後で入れてやった方がいいかもしれない。
 窓の外には、しんしんと夜が横たわっている。濃密な闇が何処までも続き、幾つかの街灯が小さな点々になって街を彩る。星も月も見えない夜。すぐ目の前に立つ街灯の橙色の光が、街路樹を灰褐色に浮かび上がらせ、その足元からは黒々とした影が伸びている。遠くでは今夜もまたサイレンの音が響いている。
 夜は、更けゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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