見つめる日々

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2005年03月17日(木) 
 午前四時過ぎ。なかなか訪れてくれない眠気に痺れを切らして、せめて横にくらいはなっておこうかと、規則正しく寝息を立てている娘の隣に滑り込む。そっと体を抱くと、彼女は少し汗ばんでいて、私は枕元に置いてあるタオルで彼女の額を拭う。小さな背中に顔をくっつけ、思いきり深呼吸。もうミルクの匂いは何処にもない。母乳を飲んでいた頃していたあの匂い。少し懐かしい。同時にちょっぴり驚きもある。ついこの間産んだばかりのはずの娘なのに、もうミルクの匂いを卒業し、一人でトイレに行くし箸も使う。あっという間に過ぎ去ってゆく時間たち。娘の成長を思うとき、時間という河の前で、その河の流れの速さに呆然と立ち尽くしているのが、この自分のような気がしてならない。
 いつのまにか降り出した雨。リュックから折りたたみの傘を取り出して開く。街中に傘の花が溢れる。鮮やかな色、くすんだ色、花柄もあれば水玉模様の傘も。私はそんな傘の花をひとつひとつ眺めながら、歩道橋の下、しばらく立ち止まる。
 知らない町を仕事や用事で訪れるとき、いつも小さな地図を持つ。行きはその地図でひとつひとつ確認しながら目的地へ歩いてゆく。でも帰りは。地図はポケットの中にしまいこみ、私は好き勝手に歩く。もちろん調子が悪ければ私は一目散に家に逃げ帰るのだけれども、ちょっと心に余裕があるときは、そうやってぶらぶらと右に左にと歩いてみる。目に付いた店先で立ち止まってはちょこっと中を覗いたり、この道は何処に続いているのだろうと知らない街角を適当に曲がる。間違えて行き止まりの道を歩いてしまい、すごすごと後戻りするのもよくある。もし地図の上、私が歩く道を色で塗ったなら、きっとじぐざぐに、下手すれば二重三重に描かれるに違いない。でもそうやって、ひとりで歩くことが私は好きだ。下駄を売る店、皮細工を扱う店、サンドイッチマンが立つ角、猫が集まる酒屋、濃い醤油の匂いが流れ出て来る裏口。店先で井戸端会議をしているおばさんたちの声に耳をそばだてると、その土地にしかない独特なアクセントがあったりして、それを聞くことができたというだけでちょっと得した気分になれる。今日歩いた商店街は、何処か懐かしい人の匂いのする通りだった。私は何となく去りがたくて、まだ歩道橋の下から離れられない。雨は降る。私は、ぽたぽたと落ちてくる重たげな雨粒を掌に乗せ、ころころと転がす。

 家に戻り窓を開ける。止みかけている雨空を見上げ、私は息を深く吸い込む。そして足元のプランターを振り返って、思わず声を上げる。
 昨日まで若苗色をしていた蕾が色づいている。一つは卯花色、そしてもう一つは藍色。葉の茂みから、にょきっと顔を出している二つの蕾が風に揺れる。もしかしたら他の蕾も…、そう思って私はしゃがみこみ、手でそっと葉を分けてみる。葉の中にまだ埋もれている蕾の首をつまんで覗きこむ。これは藍色、これも藍色、こちらは卯花色。私は心臓がどきどき鳴り出すのを感じる。昨日までは何ともなかったのに。いきなりこんなにたくさんの蕾が色づき始めるなんて。私は不思議で不思議でたまらない。そもそもこの色は一体何処からやってきたのだろう。何処から生まれ出てきたのだろう。若苗色から藍色へのグラデーション、同じく卯花色へのグラデーション、たったこれっぽっちの蕾に描かれるこの色の帯。最初に植物にこんな色をもたらしたのは、一体誰だったのだろう。私はひとつひとつ、蕾を指先でそっと撫でてみる。娘が帰って来たら一番に見せてやろう。私は、わくわくする気持ちを胸いっぱいに抱えて立ち上がる。空を見上げると、もう雨は針の先のような細かな細かな粒に。じきにこの雨も止む。


遠藤みちる HOMEMAIL

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