見つめる日々

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2005年03月18日(金) 
 まるでもう四月か五月かと思えるような日差しと風。私は埋立地の端っこ、真新しいベンチに座って、しばし顔を上げ目を閉じる。肌に触れる風の掌は冷たさのひとかけらさえ持ってはいなくて、私の頬はやわらかくぬるむ。睫に今、誰か触った。いや、誰かじゃなくてそれは風だと分かってる。でも、ついこの間までそばにいた風とは全く異なる。それは何処までもやわらかな指先。
 瞼を閉じていても分かる。風が踊るたびに樹の枝が揺れている。閉じた瞼を通して、樹影が揺れるのが伝わって来る。ベンチの前後、行き交う人たちのお喋りの声。幼い子供たちがじゃれ合う笑い声。冬の縛りから解放され、全ての人たちの足音が軽やかに響く。
 突然、風の匂いが変わる。私は閉じていた瞼を開け、そのまま空を見上げる。さっきまであれほど澄み渡っていた空をあっという間に覆い尽くす薄墨色の雲。私はベンチから立ち上がり、道端に止めていた自転車にまたがる。
 部屋に戻っても、雲は流れ去る様子も見せず留まっている。雷雨でも来そうな気配。私はベランダに出て再び空を眺める。すると、西の空の端っこにほんの僅かな雲の切れ目。その切れ目から、光がまっすぐに降りている。それはまるで降臨の一場面のような静謐さを秘めており、私は思わず背筋を伸ばす。ひたすらまっすぐに降り堕ちる光の筋。それはもう、耳を澄ましたら祈りの音色が聞こえてきそうなほどに。私は呼吸をするのも忘れて、ただその光を見つめている。
 雲は去らない。そして風が変わる。さっきまであんなに穏やかに歌を歌っていた風が突然変貌する。私の髪をなぶり、嘲るような声を上げて吹き荒ぶ。私は部屋に戻ろうとして足元を見やる。
 そこにはアネモネ。さっきまでの日差しのおかげで首を持ち上がり始めていた蕾たちが、今、風にぶるんぶるんと揺れている。だからといって彼らはここから自分で動く術はない。足を持たない彼らは、ただひたすらここで耐え忍ぶしかない。私の目の中で絶え間なく左右に大きく震える蕾。手を伸ばしかけて、止める。多分彼らは、私の手を必要とはしていない。きっと自分で耐え抜くに違いない。私は立ち上がり、部屋に戻る。

 最近、テレビを見ている最中に、娘が何度も私に尋ねてくる。この人が悪いことしたの? この人が死んじゃったの? 何で死んじゃったの? どうして? 大叔母の葬儀を見て以来、彼女はそう尋ねてくるようになった。だから私もひとつずつ答える。うん、死んじゃったんだね、悪い人に刺されて死んじゃったの。ううん、この人は怪我したの、きっと今病院で治してもらってるんだよ。その人はね、人を刺しちゃったんだって、だから警察に捕まったの。この人はね、大叔母ちゃんと一緒の病気で死んじゃったのよ。
 娘はそのつど、ふぅんと言いながらじっと画面を見ている。彼女の中で今、どんなことが起こっているのだろう。知りたくてたまらない。私の今の説明で足りてるのか足りていないのか、それとももっと違う答え方をした方がいいのかどうか。私には分からない。だから時々心配が嵩じて胸がぎゅっと痛くなる。痛くなって、ちょっと自分が情けなくなる。もっと自分に自信を持てればいいのに、と。

 そして夜、娘を寝かしつけた私はひとり、椅子に座っている。窓の外では風が吹き荒れている。開けている窓の隙間を行き来する風が、びゅるりるると音を立てる。当分止みそうにはない。
 娘が寝つく前、唐突にパニックを起こした私はしばし正気を失っていた。はたと我に返り隣の娘の顔を見やると、娘はただじっと、私の顔を見つめていた。ごめんね、ママちょっと…。そう言いかけた私に、娘が応じる。うん、分かってるよ、ママ。その言葉にぐっと喉が詰まる。だからもう一度、具合悪くてごめんね、と言う。娘が私をじっと見つめたまま応える。ママ、みうがお話してあげようか。お話? うん。そして娘が絵本を開く。たどたどしくも、ひらがなを辿って彼女がお話をしてくれる。それはたぬきとおさるさんのお話。木登りができなくてみんなにからかわれてたおさるさんが、最後、たぬきを喜ばそうと必死になって木に登る。それは森中で一番高い木で、おさるさんは必死の思いでてっぺんまで登る。それを見ていたみんなが、手を叩いて喜び合う。そんなお話。
 お話してくれてありがとね、と言うと、彼女がようやくにいっと笑う。昨日はママがお話してくれたから、今日はみうがお話してあげたの。うん、そうだね、ありがとう。じゃ、そろそろ寝ようか。うん。あ、あのね、ママ。なあに? 恐い夢とか見たら、みうのこと起こしていいよ。え? そしたらみうが撫で撫でしてあげるから。じゃ、みうも恐い夢とか見たらママのこと起こしてね、そしたらママが撫で撫でするから。うん。約束。
 今、娘の寝顔を眺めながら思う。共感する力というのは、一体何処で人は覚えてゆくのだろう。娘はどうやって覚えたのだろう。まだこんなにも幼いというのに。
 窓の外、また風がびゅるると唸っている。私は何を眺めるでもなく眺めながら、くわえた煙草に火をつける。
 まだまだこれからだ。こんなことで落ち込んでなんかいられない。明日は明日、今日は今日。今日転んだなら、明日転ばないように気をつければいい。それでも転んでしまったら、明後日こそは転ばないように努めればいい。一歩一歩。歩いてゆくしか、ない。
 風はまだ、唸っている。


遠藤みちる HOMEMAIL

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