2005年03月19日(土) |
目を覚ますと、すぐそばに娘の顔。起こさないようにそっと寝床を抜け出す。カーテンを持ち上げると、朝陽がさんさんと街中に降り注いでいる。窓を開けると、昨日よりもぐんとあたたかい風がやわらかく滑り込む。アネモネのプランターをのぞけば、次々に頭を持ち上げ始めている蕾たち。白と藍とが入り混じり、この優しげな風にふんわりとそよぐ。 娘と手を繋いで歩き出す坂道。影を踏みながら歩く。伸び縮みする影を追いかけて、二人して逃げたりくっついたり。そんなふうに左右に揺れながら歩く私たちの上で、空は澄み渡り、風が遊んでいる。 母の庭で、梅の花が終わりを迎えている。庭中に散り落ちた薄桃色の花びら。ほんの僅かな風にもひらりふわりと揺れて舞い落ちる。花を渡り歩く蜜蜂やメジロ。その合間に、私と娘は花に顔をくっつけて思いきり深呼吸。梅の儚げな香りを胸一杯に吸い込む。梅の花の匂い、水仙の花の匂い、沈丁花の花の匂い。そこら中でそれぞれの花の香りが漂っている。ねぇママ、梅干の花はどうして梅干の色じゃないの? どうしてだろうなぁ、梅の花が咲いて、それが実になって。梅干になるまでにはいっぱい色が変わるのよ。梅はたくさんの色を持ってるの。へぇ、そうなの? うん、そう。 夕方、ふと娘の顔を見るとほっぺたが赤い。おかしいなと額に手を当てると、知らぬ間に上がっていたのだろう熱が。慌てて寝巻きに着替えさせ、毛布で娘の体を包む。徐々に徐々に上がりゆく熱。やがて寒いと言い出す娘。水枕を作ったけれども、冷たいのはいや、と、娘が避けてしまう。仕方ないので、ずっと彼女が言うままに抱いて過ごす。 風邪なのか、それとももっと他の原因があって熱が出ているのか分からない。けれど。 熱くらい出てもおかしくないよな、と思う。毎日毎日何処かしら変化をし続ける娘の日常。それを必死に泳いで渡る娘。この小さな体に一体どのくらいの疲労が貯まっていただろう。それを思うと、今私の腕の中で燃えている彼女の体がひどくいとおしくなる。夜に近づくほど息遣いが荒くなってゆく娘の体。それとともに涙もろくなって、ひとつトイレに行くそれだけのことで、彼女は涙ぐむ。 ねぇママ、ママ、何処にいるの? ここにちゃんといるよ。 何度も何度も、そのやりとりが繰り返される。私の体に彼女は腕を絡ませているのだから、私がここにいるのは充分に分かっているはずなのに、彼女はいちいち確かめる。だから私も何度も応える。ここにいるよ。そして彼女は言う。ママ、またお歌歌って。だから私は小さい声で歌う。 そういえば、私は子供の頃、娘とは比較にならないくらい、四六時中熱を出していた。熱を出して早退をして戻って来る私は、自分の部屋でひとり、横になっている。熱で頭がぼうっとしているけれど眠れない。だから私は頭の中で、いくつもいくつもお話を作った。布団の横に並んだぬいぐるみのどれかを主人公にして、あれやこれや、好き勝手に話を作り、時々ぬいぐるみを動かして人形劇のようにして遊んでいた。少し元気になると、横になったままリコーダーを吹いた。すぐに息苦しくなるのだけれども、ひとりぼっちで眠れずに横になっているよりもずっとましだった。そして時々、母が私の様子を覗きに来る。ご飯を食べれない私に、林檎をすったものをおわんに入れて持ってきてくれるときもあった。それをスプーンですくって、私は一口一口食べた。すった林檎はすぐに変色してゆく。それが悲しくて、私は必死になって食べるのだけれども、私が食べる速度よりいつだって変色の速度の方が速くて、私は余計に悲しくなるのだった。そんな日々も、今思い返せばただ、懐かしい。 人は、自分が経てきたことも次々に忘れてゆく。忘れるという術は多分、人間が生き延びるために必要な能力のひとつなのだと思う。重過ぎる荷物を背負って歩き続けることは困難だから。でも、そんな私たちに、子供は過去を思い出させる。あぁこんなことがあった、あんなこともあった。それらはいいことも悪いこともあるだろう。けれど、長い時間を隔てて思い出すことで、人はたいていそれらを、懐かしく切なく思い出すことができる。そして、もし当時受け容れることができなかった事柄でも、長い時間を隔てたことによって浄化され、すんなりと受け容れることができるようになっていたりする。私たちはそうやって、おのずと自分の過去を慈しむことができるようになる。 人の命はそんなふうに、繋がれてゆくのだな、と思う。 寄り添って抱きしめる娘の体は、私の腕の中で熱くなる一方。彼女の寝息はひゅるひゅると喉を行き来している。早くよくなるといい。心の中で願いながら彼女の髪を撫で続ける私は、まだ歌を歌っている。 |
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