2005年03月21日(月) |
「ママ、朝だよ」。娘の声で目を覚ます。明け方になって少し多めに薬を飲み横になった私は、休日をいいことに目覚まし時計を掛け忘れたらしい。「ママ、明るいよ。いい天気だよ」。熱がすっかり引いたのか、いつもの桃色の頬をした娘が私の顔を覗き込んでいる。おはよう。そう言って、手を引っ張る娘について窓際に立つ。あぁ本当にいい天気だ。そして一番に思い出したのは、アネモネの蕾。もしかして、もしかしたら、今日花が開くかもしれない。そう思いベランダに出る。日の陽光をいっぱいに浴びて気持ち良さそうにそよ風に揺れる葉々。その間から五センチ前後上に伸びた蕾が今、三つ、開こうとしている。みう、お花が咲くよ。娘が飛んで来る。ほら、見てご覧。開き始めてるでしょう? ほんとだー、今日開くの? そうみたいだね、お日様が呼んでるんだよ。開いていいよって? うん、きっと。娘と二人プランターの前にしゃがみこみ、じぃっと揺れる蕾を見つめる。白い花と藍の花。そしてもう一つ、白と藍のグラデーション。きっとね、お昼ご飯を食べた後くらいに見たら、花びらがぱあっと開いてるよ。かわいいね、お花。うん、かわいいね。娘の小さな指が、花びらに触れる。私も真似をして、そっと触ってみる。やわらかくて少しひんやりした花びら。できるなら頬擦りしたくなるような。ねぇママ。なぁに? お花が開いたってことはもう春ってこと? そうね、春だね。お花は春しか咲かないの? ううん、春に咲く花もあるし秋に咲く花もあるよ。この花は春に咲くの? うん、そう。ふぅん、今は春なんだぁ。春だねぇ。 洗濯物をしながら、お店屋さんごっこをしている娘の相手をする。お店屋さんですよ、お店屋さんですよー、いらっしゃいませー。娘が大きな声で繰り返す。あのー、お店屋さん、配達はできますか? 配達って何? 配達っていうのは、お店の人が品物をおうちまで運んでくれること。ピザ屋さんとか、おうちまで運んでくれるでしょ? あれよ、あれ。ああ、分かった。いいですよー、配達しますよー。じゃぁおにぎりとソフトクリーム、配達してくださぁい。はぁい分かりましたー。そして作る真似事をする娘。あっという間にできあがり、洗濯機の前にいる私のところに届けてくれる。おいくらですか? 100円ですぅ。はい、じゃぁ100円、ありがとうございました。はい失礼しますぅ。娘はそういってお辞儀をし、また居間に駆けてゆく。 昼過ぎ、娘を自転車に乗せて埋立地の方へ。小さな踏みきりを越えると、真っ直ぐに海へ続く広い道。道に沿って銀杏の樹やプラタナスが並ぶ。距離をおいて見るとよく分かる。樹の枝々が薄赤くけぶっている。それは新芽の気配。ゆっくりと走りながら、私は一本一本、樹々を見上げる。 ねぇみう、もう少しすると樹に葉っぱがいっぱい生えて来るよ。葉っぱ? うん、多分綺麗な萌黄色だよ。もえぎいろって何? あ、えぇとね、黄緑色に似てる。ふぅん。ここの樹は銀杏っていう樹だからね、おててみたいな葉っぱが出てくるんだよ。えー、おてて? 気持ち悪いよー。ははは、そんなことないよ、かわいいよ、葉っぱがいっせいに揺れるときなんて、おててがわぁーって笑って手を振ってるみたいに見えるんだよ。ふうーん、あ、ママ、空に線ができてるよ。あぁ、飛行機のお尻から真っ直ぐ伸びてるね。いいなー、みう、あの雲の上歩きたい。いいねぇ、気持ち良さそう! 家に戻り、私たちはベランダに出る。ママ、開いてる! やっぱり開いてる。ママ、かわいいねぇっ! ふわふわしてるよっ。これがアネモネっていうお花なんだよ。うん。 今でも覚えている。忘れるはずがない。後ろから抑え込まれたときの感触。倒れ込みながら私の目を射った蛍光灯の光。でもその後のことは、殆ど記憶を辿れない。何がどうなって、そうして自分はどうやって家に辿り着いたのか。でも、残っているその一瞬の記憶は、色も匂いも感触も、全てが生々しく、今この瞬間にもまるで現在進行形で成り立つような鮮やかさでもって、いつだって私に襲いかかる。 たかが夢。されど夢。夢でそれらが再現される時も、匂いや感触がまざまざと蘇る。それが何より辛い。目を覚ましても自分の肌の上にその感触が残っているのだ。鼻にも、今ここにはないはずの匂いが蘇り、そして、私の呼吸を塞ぐ。 夢を見ないで済む薬なんてない。たとえ夢を殺しても、それは夢に出る筈だった分、何処かで必ず噴き出してくる。現実世界の、僅かな裂け目を見つけて、必ず。それらを避ける方法など、何処にもありはしない。 ママ、夢見たらみうのこと起こしていいよ。みうが撫で撫でしてあげる。この間みうがそう言っていた。私はその言葉を、眠り始めた娘の横で呟いてみる。もちろん、夢に魘されたからって娘を起こすことはあり得ないけれど。でも。 夢に魘される私を、受け止めようとしてくれる誰かがいる。その存在に、私はきっと救われている。だから眠ろう。いや、結局眠れなかったとしても横になろう。きっと、大丈夫。そう信じて。 |
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