2005年03月23日(水) |
せっかくアネモネが咲き始めたというのに、街はどんよりと濁っている。降り続く細かな雨。空から雲が降りてきている、そんな錯覚を起こしそうなほどに、雲は低く垂れ込めている。まるでこの街を丸ごと飲み込んでしまいそうな。 昨日。いつものように病院へ行く。予約の時間ぎりぎりに着いた受付、私の他に誰もいない。なんとなくほっとする。椅子に座り、荷物を横に置き、私はその荷物を枕代わりに少し横になる。 「先生、夢が現実とごっちゃになってしまうんです」 「…」 「目が覚めても、今ここが何処だか分からなくなる。夢が示す時間の方が強烈で、時間軸が一体何処にあるのか分からなくなる。もし今隣に娘が寝ていなかったら、私は多分、夢の時間軸に引きずられて、一日をずれたまま過ごしてしまうと思う」 「どんな夢を見るの?」 「言いにくいんですけど…私もこの歳になれば、過去にいろんな人とつきあってきて、セックスもしてるわけですよね」 「…」 「そういった人たちが次々に出てくる」 「…」 「一番最初は加害者でした。あの人。場所は何処だか分からないんですが、後ろ向きに出てきて、逃げなきゃと思う、でも体が動かなくて、気がつくとその人が振り向こうとしてる、あぁ振り向いてしまう、逃げなくてはと、そう思った瞬間私は絶叫しそうになるんですが、そこで目が覚める。目が覚めても、体のあちこちに感触が残ってるんです、あのときの感触が。感触だけじゃない、匂いも残ってる、だから私、分からなくなっちゃうんです、現実と夢とがごっちゃになる、私が今いるのは、まさにあの場面だと思えてしまう、だから私、パニックになるんです、何が何だかわからなくなって」 「…」 「それだけならまだいい、でも違うんです、それだけじゃなくて、過去私がセックスしたことのある人たちが、セックスしたことのあるっていえばもちろん私が自分でお付き合いした人たちなんですけれども、そういう人たちが次々に出てくる、そして、私はどんどん吐き気を覚える、眩暈がして、頭の中がぐるぐるになって、もう何がなんだかわからなくなってしまう」 「…」 「全てを引き裂きたくなるんです、何もかもを。赦せなくて。そしてその矛先は、全部自分に向くんです。何が赦せないって、自分が一番赦せない、だから自分の体も心も全部、めったくそに引き裂きたくなる、もうその衝動が止まらないんです」 「…」 「自分が、きたならしいもの、けがらわしいもの以外の何者でもありえないって思える。もうとてもじゃないけど赦せない、もう木っ端微塵にしてしまいたい、自分を。その衝動を抑えるのがどんどん難しくなっていく」 「怒りが表出し始めているのね」 「分かりません。これが怒りというものなのか、それ自体分からない。夢の中で何度も強姦されている、そんな気分に陥る。セックスのシーンなんて出てこないんですよ、ただその人がそこにいる、それだけなのに、そう思えてしまう、そして、ありとあらゆる、それらにまつわる全てが、とめどなく私に押し寄せてきて、私は呑み込まれる、そして私は、自分を抹殺したくなる。体が勝手にそう動いてしまいそうになる」 「…」 「…もしも今、娘が隣にいなかったら、私は間違いなく自分を切り裂いてる」 「そうね、きっとそうなってしまうわね。でも、現実には未海ちゃんがそこにいる」 「そうなんです。娘がいる。だから私は、どんなに自分を引き裂きたくても我慢しなくちゃいけない、耐えなくちゃいけない。その両極があまりにそっちとこっち、正反対で、だから私はその両方にに引っ張られて、自分が真っ二つに裂けてしまうんじゃないかと思えて仕方がなくなります」 「それは夢なのよ。夢と現実を間違えたらだめよ。そして何よりも、あなたは何も悪くない」 「…私は、何もかもが自分が悪いとしか思えない。悪いっていうか、自分が穢れた塊としか思えなくなる。だから木っ端微塵にしてしまいたくなる、自分を」 「夢なの。夢と現実は違うのよ。あなたは何も悪くないの、それを忘れないで」 「…」 「でも先生。私、何より赦せないのは、多分、あの事件の後、加害者に何度も強要されて、自分もそれに従ってしまったというその事実だと思う。誰も味方がいなくて、なのに仕事していかなくちゃいけなくて、仕事を教えることと引き換えに強要された、それがたとえ強要されたものであったとしても、私が、この自分が、それに従ってしまった、その事実がある。それは消えない。私はそれが何より耐え難い、耐えられない…」 「でも、そうしなければ、あなたはあの状況を生き延びてくることはできなかったのよ。あなたは生き延びるために、必死にその状況を越えてきた、それは間違いなんかじゃないわ。よく頑張って生き延びてきたと私は思うわよ」 「…」 「そうでしょう? 自分がどれほどの思いをしてここまで生き延びてきたか、あなたのその思いがなければここまで生き延びてくることなんて、とてもできなかったと思うわ。そういう自分をちゃんと認めてあげなくちゃ。あなたはこれっぽっちも悪くない、穢れてもいない」 「…」 「…」 「私は、私自身を何よりも赦せないんだと思う。あの時もっと抗っていれば、もっともっと何とかしていれば、あんな事件、起きなかった、そう思えてしまう。そうすれば、あの事件の後の一連の出来事も、何も起こらずに済んだ、そう思える」 「…」 「過去、何人かの人たちと付き合った、そしてセックスをした、それは穢れたものでも何でもない、自然の営みだった、その筈なのに、そう思えなくなる、相手のことを穢れたものだなんてことは思わないんですよ、相手は別、私と、セックスにまつわるすべてが、もうとてつもなく穢らわしくて汚らわしくてたまらない。もうそういった何もかもを、そして何よりこの自分を、木っ端微塵にしたい、抹殺したい、そうとしかもう、思えない」 「いい? 夢と現実とをごちゃごちゃにしちゃだめよ」 「…」 「怒りが表出し始めているんだと思うわ。前に言っていたでしょ? 今の生活にほっとするって。未海ちゃんとあなただけの生活、異性がそこにはいなくて、ということは、セックスをする必要もないという今の状況、その状況にあなたは今、とてもほっとしてるんだと思うわ。だから、今まで必死になって抑えてきた怒りが、表出し始めているんだと思うわよ」 「…」 「安心できたから、ようやっと怒りが表出してきてるのよ」 「…」 「それからね、自分に怒りや憎しみの矛先が全部向いてしまう、自分を赦せなくなるというのは、明らかに、PTSDの症状の一つなの。ね?」 「…」 「だから、それに巻き込まれないで。今のあなたには、未海ちゃんがいるのよ」 「…未海がいるから、私は自分を引き裂くことなんてできない」 「そうよ」 「もし今未海がいなかったら、私は間違いなく、自分をめっちゃめちゃに引き裂いてたんでしょうね」 「そうね、私もそう思うわ。でも現実には、未海ちゃんがいる。そうでしょ?」 「…はい」 「ね?」 「…はい」
主治医に話したことが功を奏したのか、家に戻って私はどっと疲労を感じた。今は何もしたくない、そう思い、ただ椅子に座って何時間も過ごした。張り詰めて、もう切れるんじゃないかと思っていた精神の糸が、ふっと、突然ふっと、緩んだ、そんな感じだった。娘を迎えにいくまでの時間、私はそうして、ただぼぉっとして過ごした。 そして今日、娘を保育園に送り出し、私は布団に突っ伏した。今なら眠れるかもしれない。 そしてふっと目が覚める。一瞬自分が何処にいるのか分からなくなり怯える。大丈夫、自分の部屋だ、私はさっき横になったのだ、今目が覚めたのだ、そのことを自分に必死に言い聞かせる。そっと布団から起き出し、窓を開けて外を見る。大丈夫、いつもの風景だ、私は安全な場所にいる、自分の中でそれを確認し、ほっとする。今目の前にある街景には鼠色の雲が垂れ込め、その雲から絶え間なく落ちて来る雨粒。ベランダから身を乗り出して、空に顔を向ける。口を開けて体を仰け反らせていると、雨粒が顔を打ち、口の中に数粒、雨粒が落ちて来る。何の味もしないけれど、雨粒を食べたというそのことに、私は何故かほっとする。 そういえば、昨日は夕飯も吐いてしまったんだった、と思い出す。朝も何も食べていない。何か食べようか、そう思って冷蔵庫を覗く。娘の為にとこのところいつも常備している苺を見つけ、少し迷ったものの食べてみる。三つほど食べたところで吐き気を覚える。でもこれを吐いたら多分、夕飯も吐いてしまうだろう、そう思って、襲って来る吐き気を何とか操縦しようと試みる。胸を叩いたりお茶を飲んでみたり。なかなか去ってくれない吐き気。私は必死で抑えている。 もし娘がここにいなかったら。今もし私がここにひとりきりだったら。 私は間違いなく、自分を引き裂いていただろう。私は久しぶりに、自分の左腕を見やる。傷痕で埋め尽された左腕。少しずつ薄れ始めている傷痕。よくもまぁこんなにもたくさんの傷痕をつけたものだと我ながら思う。でももし今、娘が私の隣にいなかったら、私はこの傷痕以上に、自分自身を切り刻んでしまうだろう。主治医の言うように、もし今、私の中の怒りが表出したりすることがあり得ているとしたら、それはもう間違いなく、私は自分を粉々になるまで切り刻んでいただろう。 でも。 思うのだ。そんなふうに私に、私の心の拠り所にされてしまっている娘は、重たくないのだろうか、と。そんな私の思いが重くて、息切れしていやしないだろうか、と。 今はまだいいかもしれない。でもいつか…。 私は猛烈に嫌悪感に襲われる。そんなことだけはいやだ、絶対にいやだ。娘にそんな足枷をはめたくはない。 だとしたら、私は、私自身でこういった衝動と向き合っていかなくちゃぁいけない。娘がいるから生き延びていける、という構図は崩さなくちゃいけない。娘は娘、私は私、そうやって、私は私自身でこの先生き延びていけるようにならなくちゃいけない。 そう思うものの、その術が今は、これっぽっちも見つからない。そのことが、悔しい。何よりも悔しい。情けなくて情けなくて、私は唇を噛む。じっと唇を噛む。唇はやがて痛みを越えて、痺れ始める。 自分で立つということが、どんなに難しいものだか、痛感する。けれど、そうやって人は立ってゆくのだ。私はそうやって、立ってゆかなくちゃいけない。私が娘の重荷になるなんて、絶対にしちゃいけない、したくない。 降りしきる雨。細かくて細かくて糸のように細い雨が、隙間なく降り続く。鼠色の雲はぴくりとも動く気配はない。通りを行き交う車の音が、下から這い上がって来る。私はただ、それらを見つめている。 |
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