2005年03月24日(木) |
写真をあれこれいじっていたら、あっという間に夜が明けた。もうすっかり空が明るくなってからそのことに気がついて、私は慌てて布団に潜り込む。ぽかぽかにぬくんでいる娘の体をぎゅぅっと抱きしめて、好きだよぉ、なんて言いながら瞼を閉じる。眠れるわけではないけれど、こうやって娘と同じ布団で寝られるのもあと僅かだろうなと思うと、一晩に一度は布団に潜ってこうやって抱きしめたい。そして、好きだよぉとか愛してるよぉと声に出して言いたい。言わないと、もったいない気がする。でも、そうやって気持ちいい思いをする代償のように、時々痛い思いもさせられる。今朝も、大きく寝返りを打つ娘の腕に思いきり顔面をぶたれ、閉じた瞼の下で火花が散った。 娘を後ろに乗せて走る自転車。日差しがあたたかくて、私たちは今冬初めて、上着を着ずに自転車に乗る。坂を下り、次は上ってまた下り。その間中、娘が後ろで歌っている。今朝は「花」。最近の彼女のお気に入りは、「大きな古時計」と「花」だ。「花」なんて、どうしてこんな渋い歌を彼女が気に入ったのか、つくづく不思議でならない。もちろん私自身はとても好きで、だから彼女の枕元でよく歌うのだけれども、近頃は彼女の方からリクエストしてくる。そして、私が歌い出すと彼女も声高らかに歌い出す。眠ってもらうために歌を歌っているというのにこれでいいんだろうかと思わないわけじゃぁないけれど、あまりに機嫌よく歌ってくれるので、止めるわけにもいかず。子守唄、ではなくて、まるで合唱。毎晩そんな具合に夜が更ける。 込み合う電車に目をつぶって乗り込む。それはまさにおしくらまんじゅう。私は揺られている間中、坂道に咲いているスノードロップの花を心に思い描く。風にゆらゆら揺れながら咲いていたスノードロップ。美しい艶やかな緑の葉の間々に白い小さな花がぽゆりと揺れて。いつもあの花のそばを通るとき思うのだ、一輪でもいいから持って帰りたいなぁと。思うのだけれども、花を折ることが結局できなくて、そのまま通り過ぎる。 ようやく駅に着き、開いた扉から客が溢れ出す。目を開けて私も歩き出す。誰かの体にこれ以上触れるのは恐いし、転ぶのも恐いから、ひたすら足元をじっと見て歩く。とにかく駅を出てしまえば何とかなる、そんな思いで。
昼前に部屋に戻り、作業を始める。たいした仕事じゃないといえば確かにたいした仕事ではない。けれど、もしこれを、家の外、たとえば会社という場所でやろうとすると、私は仕事をするということ以外のことにも神経を使わなくてはならなくなってしまう。後ろに人が立つだけで硬直する体、ふいにパンクしそうになる呼吸、見たくない映像、そういった諸々の症状と戦いながら仕事をするよりも、家で仕事をする方がどれほど楽か知れない。家で為す仕事を得ることは思った以上にしんどくて、割に合わないものが殆どだったりする。それでも、人前或いは街中で突然ばったりと倒れてしまうよりも、この方がいい。 合間にベランダに出て、アネモネを眺める。ひとつ花が咲き出すとあっという間なのだなと思う。次から次に蕾が顔を上げ、日差しを浴びて開いてゆく。白ではあまり分からないけれども、藍色の花たちをこうやって眺めると、花のひとつひとつが全て違う色をしていることがありありと分かる。何処かの流行歌で、確か、ナンバーワンじゃなくてオンリーワンだというような意味の歌詞があった。本当にそうだよなと思う。たとえば梅でも沈丁花でも、まるで全て同じように見えるひとつひとつの花だけれども、あれもみんな違う。めしべの位置、おしべの位置、花びらの付き方、そして、私の鼻では区別がつかないけれども、多分、匂いもひとつひとつ違うのではないかと思う。強い風が吹けば大きく左右に揺れ、そよ風には小さく揺れる。風が止めば元の位置に戻り、そしてまた、太陽を追ってゆっくりゆっくりと左から右に向きを変える花。なんてしなやかなのだろう。こんなしなやかさを私も持つことができたら。もしかしたら、もしかしたら時間を超えてゆくことも、もっと楽になれるかもしれない。
作業も終わりに近づいた頃、突如時計がじりりと鳴り出す。娘を迎えに行く時間の少し前にアラームを合わせておいたのだった。合わせたことなどすっかり忘れていた私は驚いて、思わず持っていた辞書を足の上に落としてしまう。その一瞬、友人が私を越えて電車に飛び込んだ、あの時の映像がフラッシュバックする。心臓が凍り付き、私は足の痛みも忘れ呆然と立ち尽くす。あっという間に呼吸が浅くなり、苦しくなり、私の胸の辺りはぱんぱんに膨れ上がる。破裂する、そう思った直後、私の耳に電話の音が突き刺さる。金縛りにあったように硬直している体を何とか動かして受話器を握ると、心友の声が。途端に私の体はがくがくと崩れ、畳の上に崩れ落ちる。助かった。そう思った。今のこの状況を知らない心友の声に、私は心底ほっとする。 いつもの道、いつもの風、いつもの並木道、いつもの坂、いつもの。私たちの日常はどれも、たくさんの「いつもの」何かで支えられている。いつもの何かはそこらじゅうにいくらでもあって、挙げ出したら多分、きりがない。そんな、日常を当たり前に支えているものたち。でもそれは、本当に当たり前なんだろうか。いや、当たり前は当たり前なのだ、でも。 あれこれ考えているうちに、私は可笑しくなって笑ってしまう。一体何をやっているのだろう、自分は。そんなふうにいちいち立ち止まっていたら、きっと群れから逸れてしまうに違いない。私は、心の中で、羊の群れを思い描く。群れて暮らす羊たち。その群れからすっかり逸れてしまい、ひとり森をさ迷う幼い羊。そして、あの木陰には狼が隠れているんだ。今まさに目の前の獲物に飛びかかろうと身構える狼が。 ふと私が日記帳から顔を上げた瞬間に、窓の向こう、雷鳴が轟く。少しくぐもっていながらも、地の底から響いて来るような音。強まる雨足。あぁ、この雷雨、もう春のものだ。私は理由もなくそう思う。もう春だ。冬ではない。雨の向こう、冬が手渡したバトンを持って、春が走り出す姿が見えるような気がする。じきに街中の樹々の枝からは次々と新芽が芽吹き、足元では色とりどりの花が咲く。その花が散り落ち、やがて目を射るような日差しで燃える夏が来る。季節はそうやって巡ってゆく。決して止まることはなく。 |
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