見つめる日々

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2005年04月18日(月) 
 雨が降り、雨が止む。そしてまた雨が降る。激しい雨、霧のような雨。沈黙。一晩のうちに雨が次々変化する。窓を開けて私は外を眺めている。街灯の橙色の光の輪の中で、雨粒が大きくなったり小さくなったり細くなったり。目を閉じて耳を澄ますと、車が行き交う音。その音も、雨が降っていることを知らせる微妙な音。
 今朝ベランダに出ると、小さな小さな蒼い粒が。ミヤマホタルカヅラが咲いたのだ。たった一輪だけれど、ぱっと開いたその花びらは、見事に藍に染まり、曇りがちの空の下できらきらと発光している。娘を呼ぶと飛んでくる。が、「なんだ、薔薇じゃないの?」とがっかり。この花は小さいけど、でも一生懸命咲いてるんだよ、薔薇じゃなくたっていいじゃん、と言い返すと、未海は薔薇がよかったの、薔薇のお花が咲いたと思ったの、ときっぱり返事を返されてしまう。せっかく咲いてるのにぃと、私は一人でしつこくベランダにしゃがみこむ。周りの他の蕾たちも、いっせいに先端を薄紫色に染め替えている。じきに次々咲くんだろう。今からそれが楽しみでならない。
 アネモネの花はずいぶん小さくなった。それでもまだ次々蕾の頭を持ち上げている。花びらが落ちかけている二本に手を添えて鋏を入れる。ご苦労様、そう言いながら取り上げ、ガラスのコップにさす。

 「今週はどうでした?」
「また手首切ってしまったんですが、でも、切ったら逆に落ち着きました。ほんの数日前のことなのに、全部もう遠い昔のような、四年、五年はもう時間が過ぎているような、そんなふうに感じられます。全部が遠い…」
「…」
「切るまでは私、かなりきりきりしていたんです、きりきりして暴発寸前という感じだった、けれど、切った後はそれがなくなって、ぼんやり過ごしていたように思います。今じゃぁもう、色褪せた写真のような。遠いんです、全てが。何もかもが遠い昔みたい」
「…そう」
「でも、声が突き刺さるのは収まらないです。今も、先生、隣の、隣の診察室の声が、ぐさぐさ突き刺さる…」
「隣の声ね」
「…」
「だから電車とか乗るとしんどい。外出るとしんどい。気がつくとだから、家の中ばかりにいるような気がしないでもないです」
「…」
「…」
「大丈夫? きつい?」
「…え、あ、はぁ、あの」
「いいわよ、ゆっくりで」
「…はい、あの、いや、何喋ってるのか分からなくなってきちゃって」
「いいわよ、無理しないで」
「…」
「…」
「…先生、私、ちょっと不安になりました」
「何?」
「この間リストカットして、楽になったでしょう? 本当にふっと楽になったんです、リストカットという行為で爆発できたおかげで。でも、ふと不安になった。これで味をしめちゃって、私、またリストカットを繰り返しやしないかって」
「ええ、そう思うわ。絶対にしないで。やめて」
「…」
「ね? でないと、昔がぶり返してしまうと思うわ。あの頃は全くもう、習慣のようになってしまっていたでしょう?」
「…私もそう思うんです。だから不安になる。でも、楽になったことも事実で…」
「だめよ、絶対にだめ。もうこれ以上切ったらだめ。分かるわね?」
「…分かり、ます。頭では。私もそうなりたくないって思う。でも、自信はない…」
「できるかぎり踏ん張って。でないとまた習慣のようになってしまうと思うわ。だから、ね?」
「…はい」
「…」
「…」
「…」
「大丈夫?」
「…すみません、隣の声が、突き刺さって。みんなどうしてあんなに早口に喋ってるのかな。早口ですよね?」
「いいえ、早口じゃぁないわ、多分、普通の速度だと思うわ」
「え? そうですか? 私の耳には、どんどん早口になっていくように聞こえる」
「…」
「攻撃されてるみたいな。マシンガンみたい、次々に声が飛び出してきて、それが全部突き刺さる」
「…」
「…すみません」
「いいのよ」
「…」
「とにかく、一週間生き延びて。今はそれだけで充分だわ。ね? 来週もここで会えるように、生き延びてね」
「あ、はい…」

 診察室から出る頃、隣から私の耳に突き刺さる声はかなりの速度での早回しになっており。それはもう、声ではなく音の領域に入ってしまうような、そんな。だから私は、診察室のドアを後ろ手に閉め、早足でその場を立ち去る。早くここから離れたい、そのいっしんで。私にとって安全な場所であるはずの診察室。でもここのところいつも、隣の診察室の声に私は呑み込まれてしまって、安全だった場所が安全じゃぁなくなってゆく。それが苦しさに輪をかける。
 処方箋を受け取り、駅へ辿り着いた私は、気づかないうちに何本も電車を見送っていた。電車の扉が目の前で閉まって、閉まってしまってから気がつくのだ、乗るのを忘れた、と。そしてまた意識がぼんやりする。
 昔、手首を切ること、自分の体を傷つけることが習慣となっていた頃、先生は一度として、やめなさいとは言わなかった。唯一、左腕のこの部分以外は切らないでね、と言っただけだった。でも今、先生は、やめなさいと私にはっきり言う。それだけ私が、あの頃よりは落ち着いてきたということなのだろうか。だから、今の私になら、やめなさいとストレートに言っても大丈夫だと先生は思って、それではっきりやめなさいと言ってくれているんだろうか。だとしたら、私はやっぱり、もう二度と切っちゃだめだ。自傷行為などに逃げてはだめだ。私は心の中でそう思う。でも。
 逃げないでいられるだろうか。
 そして心に浮かぶのは娘の顔。だめだ、これ以上だめだ、そう思う。思うのに。
 自信がもてなくて。私は途方に暮れる。でも、駄目なものは駄目だ。途方に暮れながら私は、自分に何とか言い聞かす。

 ようやく乗れた電車で、私は仕事場へ向かう。三時間ほどそこで仕事をし、作成したデータを全部自宅に転送した私は、そそくさと仕事場をあとにする。少しでも自分を緩めておきたい。私は自転車で坂をのぼり、ただひたすら、家路を急ぐ。
 家に辿り着き、私はまっすぐベランダに向かう。そしてしゃがみこむ。ミヤマホタルカヅラ、今年最初の一輪。曇り空の下、きらきらと輝くその色。私はその色だけをただじっと見つめる。色は私の中で周囲に溶けだし、辺り一面、藍色に染まる。そして気がつけば、海のように広がったその色が、波の音を立て始めている。私の中で。
 心臓の音に似たその音。私はその音に耳を澄ます。私の中で世界は静かに立ち上がる。私はいつまでも、その音に耳を澄ます。


遠藤みちる HOMEMAIL

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