2005年04月25日(月) |
朝。雨が降っている。肌に触れてくる空気が、しんなりと湿っている。雨が降っているという他は何も変わらない。いつもの、娘と二人の朝の時間。慌しく過ぎてゆく。 そして私は病院へ。傘をさし、埋立地を歩く。道の両側には、花びらをもうすっかり散らした桜の樹が等間隔に植わっている。薄灰色の空を背景に、枝々には緑がひらひらと揺れる。まだ柔らかいその葉は、ちょっとすると、背景の空の色に溶け出してしまいそうな気配がする。通勤者たちが早足で私の横を通り過ぎてゆく。みな黙々と駅への道を急いでいる。一方私は、できるならもっとゆっくり歩きたい気分にかられ、尚更に桜の樹たちを見上げる。
「なんか私、疲れてるみたいです」 「そうね、私もそう思うわ」 「それに、変なんです」 「何が変なの?」 「自分をこれでもかってほど貶めたい気持ちに駆られるんです」 「…」 「うまく言えないんですけど。昼間は、ふとすると、自分の心身を切り刻みたい衝動に駆られるし、夜は夜で、娘を寝かしつけた後、猛烈に外に飛び出したい気持ちになる」 「…」 「外に飛び出して、夜の街をふらふら歩いて、顔も名前も知らない男とセックスしちまえ、みたいな。どんどんやっちまえ、みたいな」 「…まずいわねぇ」 「はぁ、自分でもおかしいと思います。そんなこと望んでないのに。望むわけないのに、そうしたいという衝動がどくどく溢れて来る。一体何なんだって思います」 「…」 「所詮私はこんなもんなんだから、だったら徹底的にぶっ壊れちまえ、みたいな。いや、むしろ、ぶっ壊してやる、というか。うまく言えないんですけれども」 「…」 「でも、猛烈にいやなんです、男にこの身体に触れられるってことが猛烈に厭。ちょっと想像しただけで反吐が出る。結婚してた頃もそういうことがあった、愛して結婚したはずなのに、その人に触れられることに猛烈に嫌悪感を感じる。だから、さっさと終わってくれと思って、無理矢理身体を動かす、そしてさっさと相手に昇天してもらう。私は、自分の内奥で沸き起こっている出来事を隠しとおすために必死になる。なんか滅茶苦茶」 「…」 「今こうやって喋ってること自体に猛烈に嫌悪感を覚える。想像するだけで反吐が出る。なのに、衝動が止まらないんです。所詮こんなもんさ、だからどうだっていい、セックスだろうと何だろうとどんどんやっちまえばいい、とことんやっちまえ、みたいな」 「…まずいわねぇ」 「あー、もう、自分でもよく分からないんです。唯一分かってるのは、自分がかなり疲れてるなってことくらいで」 「そうね、それにかなりの緊張状態が続いてるわね」 「はぁ、そうなんでしょうか、そんな気もしないわけじゃないけれど…」 「…」 「中途半端でいるくらいなら、徹底的に貶めてしまおう、壊れるなら徹底的にぶっ壊してしまおう、二度と立ちあがれないくらいに木っ端微塵にしてやろう、って…」 「…」 「でも、たとえば夜ふらふらと街に出るなんて、現実的に不可能でしょう? 未海がいるから。今までは、そのことにひたすら感謝してた、未海の存在がストッパーになってくれてる、そのことにとても感謝してた。でもそれが、最近、それだけじゃ済まなくなってきた感じなんです。感謝と同量で、未海さえいなけりゃ私はぶっ壊れることができるのに、って思ってしまう」 「…うーん」 「今ここに未海さえいなければ、って。未海に感謝しながら、同時にそうも思ってしまうんです。訳が分からない…」 「…危険だわねぇ」 「はぁ…」 「私、明日から三週間留守にするんだけど、大丈夫?」 「先生、それ、全然大丈夫じゃない」 「ははははは、ほんと、大丈夫じゃぁなさそうよね」 「うん、先生、まずいよ、それ、ははははは」 「でも、何とか無事でいて、ね? 何かあったら病院に電話してちょうだい」 「うん、でも先生いないんでしょ?」 「そうね、いないわね」 「私、先生以外の、スタッフの人とかとも喋るの苦手だから、多分電話しない」 「じゃ、とにかく生き延びること」 「はぁ…」 「家に引きこもってなさい」 「え? 今だってもう充分引きこもり生活だと思うんだけど」 「ははははは、いいわよ、私が帰ってくるまで、引きこもってて」 「はぁ…。何とか生き延びるようにします、はい」 「またここで会いましょう、ね?」 「はい」
各駅停車の電車を見送って、急行に乗る。余計なところで停まりたくない。停まったら、むやみに下りてふらふら歩き回ってしまいそうな気がする。だから電車の中、身体をできるだけ小さく丸めて、隅の席でじっとしている。 家に戻り、少し横になる。自分の内奥に潜めている話を声にするのはエネルギーを要する。こんな話をしたら軽蔑されるに違いない、こんなことを話したら避けられてしまうに違いない、そういった思い込みが、私に話すことを躊躇わせる。躊躇う話をそれでも敢えて声にするのは、正直、それがどんな相手であってもしんどい。私は横になり、毛布を被る。頭からすっぽりと。外界から自分の身を守るように。 大丈夫。きっと大丈夫。これまでだって何とかやってきたじゃないか、しんどくたって何とかなる、きっと時間なんてあっという間に過ぎてくれる。そんなふうに、自分に暗示をかける。目を閉じて、毛布に包まって、私は繰り返す。大丈夫、私は大丈夫。 やがて日が傾き、空が薄橙色に染まり始める。降っていた雨もやんだ。私は部屋に鍵をかけて外に出る。そして保育園へ。 「ママ!」。娘が思いきり笑顔で階段を下りて来る。その声の主は、間違いなく私の娘だ。私がおなかを痛めて必死になってこの世に産み出した、大切な大切な、宝物。この宝物を抱きしめるためになら、私はどんなことをしてでも生き延びよう。 夜、眠る前に耳元で娘がこっそり言う。だから私も応える。 「ママ、愛してる」 「ママもみうのこと、愛してる」。 |
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