見つめる日々

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2005年05月04日(水) 
 午前四時過ぎにようやく横になる。娘のあたたかい身体をむぎゅむぎゅと抱きしめて、彼女が熟睡しているのをいいことに、愛してるぅなどと耳元で言ってみる。びくともせず眠り続ける娘。私も少し眠った。午前五時半、早速娘に起こされる。すぐに起き上がるのはさすがにきつくて、娘に頼んで布団の中で本を読むことにした。四人の臆病なおばけのお話。一頁ずつ交代で読む。
 娘に朝食を食べさせながら出掛ける準備。今日もじじばばのところに遊びにゆくのだと言う。その気持ちはとってもよく分かる。じじばばの家に毎週通ううちに、実家の近所に遊び友達がたくさんできたのだ。今日も遊ぶ約束をしているんだと言う。その友達は、かつて私が子供の頃、さんざん遊んでもらったお兄ちゃんご夫婦の子供だったり、よく泣かされた姉妹の子供だったり。
 ピンク色のリュックに一生懸命荷物を詰めこむ娘の姿を見つめながら、ふと思いついて、いかにも秘密めいたような表情を作り言ってみる。ねぇみう、ママねぇ、好きな人できちゃった。途端にみうがにぃっと笑う。誰だと思う? みう、もう分かっちゃった。え? 誰? 彼女は私の耳に口を寄せて内緒話のように私に言う。……でしょ? うっふっふー。それより、みうの好きな人は? ママに教えてよ。誰なの? 秘密だよん。えー、ずるいじゃん、教えてよー。…じゃ、絶対秘密だよ、約束する? 分かった、約束する。彼女は再び私の耳元に口を寄せて、保育園での同級生の名前を言う。言い終えた後、再び私に言う、秘密なんだからね、絶対言っちゃだめだよ! 分かった、女の約束。そうして指きりげんまんをして玄関を出る。それにしても。これまで一度もその名前は聞いたことがなかった、彼女の話の中にはほとんどその男の子の話は出てこなかった。それが一番好きな人だなんて。子供ってほんと、予想がつかない。
 駅までの道筋、蒲公英のポンポンをひとつ見つける。彼女は駆け寄ってそれを摘む。ふぅふぅと息を吹きかける娘。人しか通れないような細い道をくねくねと歩く私たちのそばから、綿毛があちこちに飛んでゆく。そして最後、娘が困った顔をする。どうしたの? ねぇママ、これはどうすればいいと思う? 綿毛をすっかり失った蒲公英の茎を手に、彼女はじっと考え込んでいる。土に返してあげれば? 何処に土あるの? ほらそこ、空き地があるでしょ? そこに埋めてあげればいいんじゃない? うん、分かった。ママ、待ってて。小走りに空き地に駆け寄り、しゃがみ込んだ彼女は一生懸命土を掘っている。そこまでしなくてもいいだろうにと思いつつ、彼女の気持ちが嬉しくて、私も自然、微笑する。無事に埋葬を終えて戻ってきた彼女と手を繋ぎ、またぶらぶらと歩く。そして今日も私たちは立ち止まり見上げるのだ。一軒のお宅の玄関に植えられた大きな大きなモッコウバラの樹を。満開はもう過ぎて、そっと指で触れるとはらはらと花びらが舞い落ちる。ママ、もうお花終わりなの? そうみたいだね。正面から吹きつけてきた強い風に私たちは思わず顔を背ける。その風に乗って、花びらが宙を舞う。
 電車に乗り、実家の最寄の駅へ。それじゃぁみう、また夜にね。いっぱい遊んでおいで。ママ、ひとりでさみしくない? ちょっと寂しいかな? でもまた夜になったらみうに会えるからママは大丈夫だよ。じゃ、みう、いって来る! そういって改札口を飛び出してゆく娘。迎えに来ているじぃじと娘がこちらに手を振る。二人が見えなくなるまで私は見送り、再び元来た道を辿る。

 車窓を流れる風景は、何処もかしこも見慣れた風景。電車通学を始めたのは中学生からだった。そして実家を離れ別の街で一人暮しを始めるまで、私はこの風景の中で呼吸していた。もちろん、ずいぶんと時が流れ、それまで在ったものが失われたり、それまでなかったものが次々に建て込んでいったり、風景はおのずと変化している。けれど、何処までも身体に馴染んだ空気が、そんな変化など容易に忘れさせる。
 ひとつ手前の駅で降り、ゆっくりと歩く。片手に握った紐にくっついたホルガを、ぶらぶらと揺すってみたり回してみたり。それにしてもなんて蒼い空なのだろう。なんて高い空なのだろう。横断歩道を渡りきったその場所に立ち止まり、空を見上げる。空に階段があったなら。そこをてこてこと歩けたなら。私はどんな風景を目にすることができるんだろう。
 朝早い時間。商店街もまだ半分眠っている。この通りも、私は今日までに一体どのくらい歩き回っただろう。数え切れない。ここもまた、中学生の頃からの遊び場のひとつだった。授業をさぼって本屋にしけこんでいたら、生徒指導の先生に見つかってしまい大目玉を食らったこともあったっけ。もう思い出せないこともたくさんあった。
 私は再び歩き始める。久しぶりに夜に花開く街を通り抜けることにする。明るい朝の陽光の中、その一角は静まり返っている。すれ違うタクシーには、濃い化粧のままの若い女性が乗っている。そんなタクシーが四台。次々に通り過ぎてゆく。仕事を終えた帰り道なのだろうか。眠そうな目を擦る女性の手が、陽光を受けて白く揺れる。
 橋を渡ろうとして眩暈を覚える。今日はこの辺にしておこうか、まだ本調子ではないのだろうと、私はバス停のベンチに座り込む。停留所たった二つほどしか離れていない自分の部屋が、今はやけに遠く感じる。

 知らぬ間に時が過ぎてゆく。気がつけば辺りは夕暮れがすぐそこに来ており。私は少し早いかなと思いつつもカーテンを閉め、明かりをつける。そういえば今日も朝から殆ど何も食べていない。少しおなかが空いたんじゃなかろうか、そう思っておかゆを作る。食べるまでは確かにおなかが空いていた。けれど、一口頬張ると、いきなり胃がせりあがり、私は慌ててお茶を飲む。食べるもの食べなくちゃ元気になれないよと、昨夜友人が電話で言っていた。私はその友人を思い出しながら一口一口、食べてみる。でも。結局半分も食べることができなかった。胃に流し込んでいるはずなのに、すぐに喉元まで上がってきてしまう。私は胸の辺りをとんとんと叩く。でもやっぱり、落ちていかない。仕方なく私は食べることを諦める。
 明後日には、仕事が控えている。明後日明々後日、そして来週。仕事は待ってはくれない。こなしていかなきゃ次はない。それまでには何とか、この身体を立て直さなくては。……と、変に気張ってみたって何の足しにもならないことに気がつき、苦笑する。何事も適度に。明後日のことは明後日になってから考えよう。
 ふと玄関を開けて外廊下に出てみる。ここからは、裏の学校の校庭がすっかり見下ろせる。ちょうど今は、昼間賑やかに練習をしていた野球小僧たちが、コーチに怒鳴られながら後片付けをしているところだった。コーチの見えないところでじゃれあう子、もうくたくただといわんばかりにとぼとぼ歩く子、どの子の足元からも、長い影が伸びている。その影もだんだん輪郭が薄くなってゆき。どうもありがとうございました、の一礼の後、子供たちはちりぢりになる。
 今頃娘はじじばばと早めの夕飯を食べている頃だろう。部屋に戻り、私はお湯を沸かす。娘が戻るまでの残り僅かな時間、あたたかいお茶でも飲んで過ごそう。

 西の空、もう夕焼けも消えゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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