2005年06月14日(火) |
夜、玄関のベルがなる。モニターで相手を確認し、私はチェーンを外し鍵を解く。ヘルメットをふたつ持った友人が目の前に立っている。行こうか。何処行こう? このあたりはどう? そんなに遠くまでいかなくてもいいよ。このくらいどうってことないよ、行くなら…。二人同時に「海」と言う。絶対海だと思ったよ、私もそう思った、笑い合いながらバイクに乗る。 ただ風を切る。闇を切る。切り裂いて切り裂いて切り裂いて、何処に何があるのかなど別に考えもせず、ただ切り裂いて走る。私はハンドルを握る友人の体に腕を回し、バイクの振動にただ体を預けていればいい。 理屈も屁理屈も全部後ろに飛んでゆく。闇は何処までも広がっていて、私たちが切り裂くのを待っている。でも、切り裂いても切り裂いても彼らは再生するのだ。そして私たちに微笑みかける。このくらいどうってことないんだよ、私にはね、と、まるでそんな声が後方から静かに聞こえてきそうな錯覚を覚える。だから私は絶対に後ろを振り向かない。振り向いたら呑み込まれそうだから。何に? 闇に。 勘だけで辿り着いた海は黒く、そういえば昔自分がこんな海をコールタールの海と呼んだことを思い出す。でも今、しめっぽい砂浜にしゃがみこんで眺める海は、コールタールじゃぁない。闇が水に化けただけだ。闇が波に化けて、しゃらしゃららと笑っている。 しゃらら。しゃわわ。しゃらら。しゃわわ。 打ち寄せる波の繰り返されるその音に耳を澄ます。 そういえば昔、貝殻に耳をくっつけると波音が聞こえると聞かされた。だから私はありったけの貝殻を集めて、ひとつひとつに耳をくっつけてその音を確かめたんだった。何故そんなにも波音に、海に惹かれたのか、自分でもよくわからない。いや、理由なんて多分ないんだ。ただ魅せられた、それだけ。ただ魅せられた、そして虜になった、そういうことだ。きっと。 ずっと左に離れた砂浜で、誰かが花火を上げている。風に乗ってやってくるその匂いを、私はそっと吸い込んでみる。花火の匂い。夏の匂い。浜の匂い。潮の匂い。いろんな匂いが少しずつ交じり合って、私の中に溶けてゆく。 何だかどうでもよかった、すべてのことが。あらゆることがどうでもいいと思えた。これ以上進んだらどうやっても入院しか術はないわよ、と告げられたことも、切り刻む腕の傷跡がどんどん増殖してゆくことも、その傷跡が赤黒く私の腕いっぱいに残っていることも、強烈な薬を飲んでも超えられないパニックがあることも、もう全部、全部どうでもよかった。私はただここに在て、それでもう十分なのだ、と。 帰ろうか。どちらともなく立ち上がり、私たちはまたバイクにまたがる。一度来た道を戻るときというのは、どうしてこんなにもあっという間に走れてしまうのだろう。スピードを上げて、どんどん後方に流れ去ってゆく闇に包まれた家々や点在する街灯の仄かな明かり、それらをバイクはいとも簡単に木っ端微塵に吹っ飛ばしてゆく。 家に辿り着いたのは、もう真夜中近くだった。たったあれだけの距離を走って往復しただけなのに、私は長い長い道程を過ぎてきたような錯覚を覚えるのだった。 また走りに行こうね。今度はどこにする? 別に遠くなくていいよね、近くで。近くでだと、こんなとこどう? いいかも。じゃぁ今度はそこね。また行こう。うん、行こう。 ふと思う。この約束は、本当に果たされるのだろうか。現実に私たちはまた闇を走ることがあるのだろうか。確率からいったら私たちはまたきっと近いうちに走りに出るだろう。でも。 その一瞬、私の目の前を何人もの顔が津波のように雪崩れてゆくのだった。もうこの世にはいない、自ら命を断った友人たちの顔が。 ごめん。私はまだそっちにはいけない。私はまだ生きていたい。だから、そっちにはいけない。ぐるぐると渦を巻く顔、顔、顔、顔。血にまみれていたり、美しく真っ白な肌をして横たわっていたり、みんなそれぞれに違う顔、顔、顔が。螺旋を描いて流れ行くのだった。そう、まだそっちには逝けない。私はまだ死ぬつもりはない。 薬を飲んで布団に横になると、あっという間に眠りに入った。 そして朝、私は目を覚ます。 ほら、私はまだ死んじゃいない。生きてる。手も足も動く。呼吸もできる。 みんなよろしくやっててくれよ。私がそっちに逝くまで。昨夜私をとりまいてぐるぐると回っていた顔々に私はそう言ってみる。 さぁ今日も一日、私は生きる。もうしばらく、死にたくはない、悪い、だからごめんね、みんな、バイバイ、ね。いつだって君らのこと、君らがここでかつて生きていたそのこと、そして自ら死を選び死へとダイブしたこと、私は忘れたりしないよ。覚えてるから。 覚えている、から。 |
|