2005年06月15日(水) |
「はい、ここに荷物置いて。肩の力抜いて。はい、深呼吸一回」。外科の先生がそう言う。だからそのとおりにやってみる。すると先生が、「この薬塗っておくから。大丈夫ですよ、それから包帯は外さないようにね」「はい」。 やりとりはいつも、そんな感じ。そして私がリストカットをしてしまった後に我に返り、自転車飛ばして病院に行くと、これもまた同じような対応で迎えてくれる。 そういう先生が、こんな場所にいるとは思わなかった。それが正直な感想。あっちこっち大きな病院を回ってみたけれども、リストカットというだけで拒絶されるところばかりだったのが、こんな小さな駅前の病院で、こんな先生との出会いがあるとは。 この先生の言う「大丈夫」という言葉は、本当に大丈夫なんだと、わずかにではあるけれども信じることができる。信じることができるというそのことは、とても大きく私に作用する。大丈夫、大丈夫、大丈夫。帰り道、ひとりでそんな言葉を歌うようにつぶやいていると、本当に大丈夫な気がしてくる。それが錯覚だとしても。 過食嘔吐を二回連続で為してしまう。薬で朦朧としている意識の中での過食嘔吐だから、朝起きるととんでもない惨状を目の当たりにすることになる。マーガリンの上にばらまいたクラッカーや、皿から飛び出してテーブルの上に散乱するさまざまな食べ物。よくもまぁここまでできるもんだと呆れるくらいの惨状。私はそれをひとつずつ片付けてゆく。代わりに片付けてくれる人なんているわけないし、そもそもこんな惨状を他の誰かに見られたくもない。私は黙々とゴミ袋にカスを放り込んでゆく。そして最後、山のような皿を淡々と洗って片付ける。
サンダーソニアが色づき始めた。小さな花だけれども、その鮮やかな橙色は、たったひとかけらであっても私の心を暖めるのに十分なほど。週末に西の街に住む友達がやってくる、その頃にはきっと、三本ともが花をつけているに違いない。それを思うとちょっと嬉しくなる。この花がくれる元気には、一点の曇りも澱みもないから。きっと彼女の心もあっためてくれるに違いない。 外科からの帰り道、車の通らない裏道を通って帰る。雨の中足音もなく歩く猫たちと何度かすれ違う。彼らは決まってこちらをちらりと見、そしてさっさと歩いていってしまう。でもそれが猫というもの。こっちもそ知らぬふりをして通り過ぎる。 池の公園では今まさに紫陽花が花盛り。紫陽花の花に顔をくっつけてみるが、いつでも匂いがほとんどしない。紫陽花に似合う匂いってどんな匂いだろう。雨の中、傘をさしながらしばらく考え込んでみる。思いつかない。でもきっと、雨を思い出させるような静かな匂いが似合うんじゃなかろうか。私はそんなことを思いながら帰り道の続きを歩き出す。 小学校の金網沿いに植えられたプラタナス。日に日に大きくなる葉が青々と茂る。すずかけの木もいつのまにか葉を風にそよがせ、雨に打たれつつも、まるでそれは自然のシャワーかと思うほど気持ちよさそうに見える。私は家に戻ってくると、例のごとくいつもの席に座り窓を開ける。窓の外の雨の筋がここからはよく見える。でも、何だろう、今日はいつもよりも雨の匂いが薄い気がする。何故なんだろう。
この時期になるといつも思い出す人がいる。彼女は今頃何処でどうしているんだろう。私は何も知らない。一度だけ人伝に短い手紙をもらった。私が子供を産んだことを祝ってくれるカードだった。でも、そこに書いてあったもうひとつ、別の言葉が、私は忘れられない。まだあなたに会えるような私にはなれてないから、私の居場所は教えられない、と。彼女はカードにそう言葉を添えていた。 私がかなり酷い精神状態にあったとき、彼女の大切な友人の一人も私と似通った状況に陥っていた。彼女はその友人と私とを、二人ともを助けようとした。必死にそうしてくれた。でも結果は。 その友人の自殺だった。 以来、彼女とは会っていない。「もしさをりがいなかったら、彼女一人だったら、私は彼女を死なせずにすんだかもしれないと思うと、理不尽だってわかっていながらもさをりを憎みたくなるんだ」と、そんな言葉を残して、彼女は消えた。 それがこの季節。ちょうどこの季節だった。 今頃何処でどうしているんだろう。ふとしたときに彼女をそんなふうに思い出す。でもきっと彼女は死んでなんていない、生きている。それだけは、確信のように思うことができる。正直言うと、それがせめてもの、救い。 ねぇ、私はここで生きてるよ。今こんな感じだよ。彼女にそう直接言うことができたらどれほどいいだろう。でもそれは、叶わぬこと。私はただ黙ってじっと、耳を澄ますことしかできない。彼女がもしかしたら、いつの日か送ってくれるかもしれない信号に、もしかしたら一生聞くことができないまま終わるかもしれないことを覚悟しながら。
雨は降り続いている。明日も降るのだろうか。眠る前に、天気予報でも見てみよう。 そうして雨は降り続く。 |
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