見つめる日々

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2005年07月08日(金) 
 昨夕、家に辿り着くなりばたんきゅうした私は、何度かその眠りの途中で電話を受けたらしい。しかし、まったくもって情けないことに、一体誰からの電話だったのか、一人の名前しか記憶に残っていない。ついさっきも「昨夜電話したんだよ」と友人から電話があった。覚えていない私は、ただただ平謝りである。それにしても、どうして自分が突然そんなにも眠りを欲したのか、不思議でしかたがない。
 そうして今朝、さわやかな冷気が開け放した窓からするすると滑り込んでくる。部屋の中を風が渡ってゆくさまに身を任せているのは、実に心地がいい。だから私はいつまでも、この窓際に佇んでいたくなる。

 これは多分、今、頭が冷静だから思えることなのだと思うが。
 本気で死のうとしている人を止めることは、多分、よほどのことがないかぎり不可能だ。どんなに心身を尽くしてその人を守ろうと思ったって、その人から死を覆い隠してしまおうと思ったって、所詮生きているちっぽけな人間ひとりの為すこと。出来る事なんてたかが知れている。それじゃぁお百度参りでもすればどうにかなるのかといえば、これまたどうにもならない。神様なんて気まぐれな人間の作り出した偶像だ。心平穏な頃には、それは聖なるものであっても、死へ片足を踏み出した人間にはもう、そんな代物、目に入らない。むしろ、地獄への招き手に見えるほどじゃぁなかろうか。少なくとも私はそうだった。
 昨夜、真っ暗な部屋でひとりで泣いていたあの子は、今頃どうしているだろう。笑顔は戻っているだろうか。失われた命の前で、倒れ伏し泣き続けているのだろうか。
 ひとり、またひとり、と、自分の周囲から誰かが消えてゆく。消去されてゆく存在にいくら手を伸ばしたって引きとめようと喉を掻き毟って叫んでみたって、届かないのだ。届かないというそのことに、私たちは絶望する。そしていずれ目の前に横たわる同士の死を前にして、ただただうなだれる。そして、どうして引き止めることができなかったのかと悔いて唇をかみ締める。生き残った私たちにできることといえば、そのくらいだ。
 ここまで書いて、私は苦笑する。
 そう、かつて私は、死にたい側の人間だった。死を欲する側だった。けれど。
 今は違う。どうやってでも生き延びてやろう、生き残ってやろうと思っている側の人間だ。そんな側の人間にとって、周囲の命の炎が一個、また一個、消えてゆくのを否応なく見せつけられることほど、辛いものは、ない。
 それでも私たちは生きるのだ。生きるために産まれたのだから。産まれた瞬間から人は死に向かって生きているとはよく聞く言葉だが、確かにそうだが、同時に、生きるためにこの世に産まれたのだと放たれたのだということも、間違いなく真実のひとつなのだ。だから。
 だからどうか、忘れないでいてほしい。できるなら、頭の片隅にちょこねんと、ちょこねんと、でも常に常に置いておいてほしい。君はここに存在すべき者なのだ、ということを。ここに在るだけで、十分な存在であり、間違いなくそれほどの価値を担った者であるということを。
 ねじり花が如雨露の水を受けてしなしなと揺れる。薔薇の葉の上を水滴が転げ落ちる。その雫はあっという間に土に染み込み、その姿を失う。けれど、毀れた水滴たちは毀れたままでいるのではなく、植物に吸い込まれ、やがてそれが葉になり花になり、そしてまた、落ちる。
 ただの繰り返しに思えるその行為に、私は永遠を感じる。確かにただの繰り返しかもしれない。けれど、樹の生え方が一本一本違うように、葉の茂りぶりが一枝一枝違うように、私たちの生き方もひとつひとつ、違う。
 違ってもいい。違っていていい。だから全うしてほしい。その唯一の代物を。命という代物を。
 さんざん自分の生を弄んだろくでなしの私は、今はそう、祈っている。

 いつの間にか窓の外では、細かな雨が降りしきっている。街灯の明かりの輪の中で、その細雨がまるで粉雪のように舞い揺れている。私は天気予報にアンテナを合わせる。明日の朝の降水確率は…。壊れかけたラジオの電波は途切れ途切れ、私に天気予報を教える。私はそれに耳を澄ましながら、今もまた、外を眺めている。


遠藤みちる HOMEMAIL

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