2005年07月13日(水) |
朝、街はすっかり灰色の雲に覆われている。開けた窓辺に立ち、目をじっと凝らすと、細かい細かい霧のような雨が舞っている様子が見てとれる。ベランダに出て私は道を見下ろす。細かな霧のようなこんな雨でも、路上を黒く濡らしている。ベランダの手すりにつかまり、顔を空に向けて背中を思い切りそらしてみる。微かに感じ取れる雨の粒。私はしばらくそうやって、顔が微かに濡れてゆくのを楽しんでみる。 実家に電話をし、娘に代わってもらう。いつだって彼女は一番最初に「まーまーたーん」と大きな大きな声で言うのだ。だから私も返事をする。「みーうーたーん」。最近、私はお迎えの時間になると彼女を迎えに出掛けている。迎えに行き、彼女を抱きしめて、実家へと送る。それが今の私の仕事のひとつ。リハビリのようなもの。 駅までの道、駅から電車に乗り込んでからの時間、私たちはひっきりなしにおしゃべりをしている。今日はこんなことがあっただとか、昨日はこんなことがあっただとか。ふと思う、一緒に暮らしていた頃より、今この一緒に過ごす短い時間の方が、もしかしたら濃密かもしれない。そしてあっという間に実家の最寄り駅に到着し、私は彼女を抱っこかおんぶかをして階段を上がる。しんどいけれど、彼女の重さを否応なく感じるその行為の中で、彼女がこの数ヶ月間、私の知らないところでどんどん大きくなっていっていることを実感する。改札口にたどり着くと、向こうでじぃじが待っている。私は彼女をもう一度抱きしめ、じゃぁまたね、と言う。彼女もうんと返事をし、そして彼女は改札口の向こう、待っているじぃじのもとへとゆく。手を振ってバイバイをする。私は彼女らの姿が消えるまでじっと改札口に立っている。そんな毎日。 できることからひとつずつ積み重ねてゆく。それは辛抱の毎日だといってもいいかもしれない。こんなちまちましたことを丹念に繰り返しているくらいなら、いっそひとっとびに無理矢理ジャンプでもしてしまった方がいいんじゃないかと思う。焦りのような気持ちが私の中で暴れている。でも、ここまできて焦ったって何にもならないということも分かる。だから必死に辛抱する。今の私は、ひとつひとつ積み重ねて、それを強固にしてゆくことが大事なのだと、自分に言い聞かせる。私の大地をしっかり固めなければ、彼女とこの先歩いてゆくためにもしっかり固めなければ。そう思いながら繋いで歩く彼女の小さな手を、私は時々ぎゅうっと力を込めて握る。そして、この手を決して離してはいけない。心の中でいつだって彼女と手を繋いでいたい。そう思う。ひとつひとつ。一段一段。できることを積み上げる、その行為がこんなにも辛抱を要するなんて、そういえば私は全然知らなかったな、と思う。心の中で繰り返す。辛抱辛抱、今は辛抱。自分でも苦笑してしまうけれど、私はあまり辛抱ということをしないで人生を過ごしてきたんだなとつくづく思う。
ぼろぼろになっていた薔薇の樹の一本が、いつの間にか再生して、幾つもの蕾をつけている。また、薔薇の樹のプランターの中で、去年娘が植えた朝顔から毀れたのだろう種が芽を出し、棒を立ててやるとそこに絡まって、今、空に向かってぐいぐい伸びている。植物のこうした姿を見るたび、私は、沈黙の意味を知る。孤独が決してつまらないマイナス的な代物ではないように、沈黙もまた、必要な、大切なことのひとつなのだと。 そうして今日も一日が始まる。窓際ではやさしい霧雨を受け止めながら、緑がちろちろと揺れている。 |
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