2005年07月20日(水) |
ひとりぼっちの夜。窓から流れ込んでくる静かな夜風。物思いにふけるにはうってつけの時間。今私に在るのは、そんな時間。 ふとしたときに思う。人はどうして、幸せになりたいと思いながら不幸せな方へ自ら走っていったりするんだろう。もっともっと、と願うあまり、今の幸せを省みることができない。これでもかこれでもかと求めるあまり、足元に広がる深淵に気づかず足を踏み出し真っ直ぐに落下する。これじゃぁ自殺と間違われても仕方がない。 むしろ、幸せをぽいっと放棄し、両手両足をだらりと垂らし、幸せになることなんて諦めてしまった先に、希望が芽生えていたりする。そして私たちはそこでもなお、幸せを摘み取るのだ。せっかく咲いた花をあっけなく摘み取るのだ。幸せになりたいと歌いながら。 日常のあちこちに潜んでいる幸せの花。私たちは一生に一体幾つの花芽を摘み取って道端にぽいっと放っていることだろう。今こう書いている私自身、きっと、もう、数え切れないほどの夥しい花芽を踏みつけにして、多分きっと、ここに在る。 だから私は慌ててしゃがみこみ、もうずたぼろになった花を拾い上げては申し訳なさに暮れるのだ。 じゃぁどうやったら、踏みつけにしてしまう前に気づくことができるのか。その花芽を愛でることができるのか。 ゆっくりゆっくり歩くことだ。世界をゆっくり呼吸して、風のように、足元や頭上を時折覗き上げて、そして、今自分がいる場所を、世界を愛することだ。それに尽きる。 今に満足したら、次はないと思え。昔、そんな言葉を言っていた教師がいた。確かにそうとも言える。このとてつもない競争社会にあって、「ゆっくり」なんてものを手にしてしまったら、そのまま落ちこぼれになるとも限らない。 でも。 競争なんて、人間が作り出した囲いの中の一産物だ。世界を区切って囲って、どんどん自分の大地を狭くしている。 私は。 私はもうすでに、社会の落ちこぼれだ。その昔、集団の先頭をきって走っていた私は、今はもうすっかり影を潜めている。代わりに私が手に入れたのは、あっちこっち転びながら、切り傷を作りながら、それでも諦めずに歩き続けてゆくしぶとさだ。でも、所詮、負け犬の遠吠えに過ぎないのかもしれないけれども、これはこれで面白いなと思う。こういう歩き方もあったのか、と。それだけで私の世界は、二倍三倍に広がった。 人は戦わずには生きられない生き物だ、と、これもまたその昔、誰かが言っているのを聞いたことがある。本当にそうなのだろうか。確かに、目に見える明らかなる戦争という形だけでなく、戦い争いなんてものは、誰の心の中にもある。一分一秒余白を生むことさえなく、ただひたすら戦い続けて生きてゆく人もいる。それに慣れてしまって、戦いから手を引くタイミングを術を、すっかり失ってしまった人もいる。なら自分はどちらを選ぶのか。 私はできるだけ戦いから遠いところで生きていたい。ずるいかもしれない。弱虫かもしれない。でも、私は、もっと世界を深呼吸していたいから、だから、それを阻害するものは放棄する。そのせいで或る日突然爆弾が落っこちてきて、一瞬にして死ぬ運命にあったとしても、私は、戦いを放棄することを選ぶ。 ひとつ諦めた先に、二輪の花が咲いていた。 ふたつ諦めた先に、四つの花が咲いていた。風にそよそよと首を揺らすかわいらしい花が。 私は。 そんなふうに、たかが雑草かもしれない花を愛でながら歩くことの方をこそ、やっぱり選びたい。 さっき、西の遠い街に住む友人が、受話器越しに笑っていた。さっき東の街に住む友達が声を殺して泣いていた。そんな、人々の泣き声も笑い声もどちらも、私は抱きしめたい。戦いで流れた血を糧にするのではなく、日々の営みから漏れ聞こえてくる人々の匂いをこそ糧にして。そうして生きていきたい。
私はまたひとつ、今日を越えた。時計を見つめ思う。さっきまで明日だった未来が今日になり、さっきまで今日だった時間が過去になり。そうして私は歩く。歩き続ける。 |
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