2005年08月08日(月) |
夜が明ける様子をじっと見つめていた。いつもの窓際、椅子に体育座りといった格好で。やがて明けゆく空。ふと思う。この空は、ついさっきまで何処にいたんだろう。何処の国の上に、どんな街の上に、どんな家族の眠る屋根の上にいたんだろう。地球が廻っている、そのことがなんだかやけにはっきりと感じられる夜明け。 それはそのまま、今までここに在った夜空が、今度は何処へいったのだろうという疑問に繋がる。今頃は海の上? 日付変更線の上? それとも誰かがまだ眠る港町の上? 撮る気持ちはまったくなかったけれども、いつものようにカメラをぶらさげて、ポケットには小銭を入れて煙草を入れて携帯灰皿ももちろん入れて、そうして私は街に出る。 誰もいない公園。バイク等が入れないように入り口に柵がある。その柵をひょいと越えて私は公園に続く短い坂をのぼる。ゆっくりと視線を流しながら、最後に空を見上げる。もうこんなにも明るい。そしてその視線を落として次に見つめた東の空からは、四方八方に光が真っ直ぐ伸びている。その光が一瞬七色に輝くのを見つけた。或る角度から見つめたときにだけ生まれる七色の帯。朝の光というのはこういった不思議をいつも抱いている。昼の光では決して見られない不思議。 ひとしきりその公園でブランコをこいだ後、私はもうひとつの公園へ足を向ける。池の公園。以前住んでいた部屋のすぐ裏手。 足音をひそめ、私は池の方へ進む。すると、鳩や雀が小さな池で水浴びをしている。私は気づかれないように立ち止まり、彼らの様子をじっと見守る。上手に両の羽で水浴びする者、何故か右の翼だけを動かして水を浴びる者、かと思うと、頭から水の中に体を突っ込んでばたばた暴れる者もいる。鳥と大きく一括りで呼んでも、実際は人間と同じく、一羽一羽個性を担っている。 その池に覆いかぶさるようにして伸びる桜の枝。四月、この枝は薄桃色の花びらでびっしりと埋め尽くされていた。風が吹くたび、ひらりはらりと花びらが舞い落ちたものだった。そして今、その枝には、濃い緑色の葉々がぶらさがり、時折行き交う風と戯れる。 公園の中央から延びるまあるい下り坂をおりてゆく。左右にはもう花の終わった紫陽花の樹がびっしりと植わっている。公園出口の両脇を飾る紫陽花は、もうすっかり色の変わった花をまだ名残惜しそうにその身に抱いている。その花に指先で触れてみる。かさかさの薄い皮膚のような感触。藻色の干からびた花びら。 どのくらいの時間散歩していたのだろうか。時計を持って出なかったので私には分からない。でも、そうやってあちこちを歩いているうちに、心が元気になってゆくのがひしひしと感じられた。米屋の車庫に置いた椅子に、いつまでも座っている老人や、風が通り抜けるのだろう窓際でだらしなく体を伸ばしているトラ猫、朝早くから動いている米屋の玄関先には、おこぼれに預かろうという鳥たちが何羽もひしめき合うその様子。それは、いつもそこに在る当たり前の風景なのだけれども、何の不思議もない毎日の風景のひとつでしかないのだけれども、でもだからこそ、私の呼吸を楽にさせてくれる、そんな不思議な力が備わっている。 家に戻ると、待ってましたとばかりに電話のベルが響く。用心深く受話器をとると、それは親しい女友達からの電話。ここからはもう、言いたい放題やり放題。電話越しだというのに、今この瞬間彼女はちゃんと私の目の前にいて、しっかり私の目を見つめ喋り通す。ひとりで生きているというその言葉の意味や、実際の自分たちの姿、そんな小難しい話から笑い転げずにはいられないような話まで、何処までも何処までも電話は続く。
美しい透き通った夕映えを、薔薇の樹に水をやりながらじっと眺める。そして、今朝感じたことをまた改めて感じる。地球は廻っているのだな、と。 私の今日は、もしかしたら誰かの明日。私の昨日は、もしかしたら誰かの今日。空や大地はそうやって一続きに広がってゆくのかもしれない。でもその場所その場所に立つのは、ひとりひとり違う魂を抱く者たち。 そして今、窓の外に広がるのは闇色。通り隔てた向こうには、いつものように橙色の光を放つ街灯とその光を受けて揺れる街路樹。またひとつ、またひとつ、街の明かりが消えてゆく。あの窓の向こうで、あの扉の向こうで、誰かがきっと今頃眠っている。 さぁ私もそろそろ横になろう。その前に、左腕に巻かれた古い包帯を解いて、今朝洗濯した真っ白な包帯に巻き代えて。明日は明日、今日は今日。私はただ一日一日を、大切に過ごしたい。そう、ただそれだけ。
おやすみ。 |
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