2005年08月13日(土) |
今、布団の上では娘が大の字になって眠っている。眠る前、暑いよ暑いよとシャツをまくりあげる癖は昔のまま。そして背中がかゆいだとかお尻がかゆいだとか、本当にかゆいのかどうかは別として、私にその都度ぽりぽりとかかせるところも昔のまま。寝るまでに二時間近くの時間が必要なのもあの頃のまま。だから、ようやく眠り始めた娘にタオルケットをかけ、こうして日記帳に文字を記していると、錯覚を起こしそうになる。時間があの頃にぽーんと戻ってきたような錯覚。だから私は何度も娘の寝顔を見つめる。いや、あの頃の娘の顔じゃない、もっと逞しく、もっと凛々しくなった今の寝顔を、私はじっと、じっと見つめる。
このところ少し心が疲れていた。油断するとすぐ自己嫌悪や欝に陥って、左腕をざくざく切っていた。自分で言うのも何だが、腕に添えた刃を握り締めて奥へ奥へと力を傾けながら引くと、ぱっくりと、見事にぱっくりと傷口が開く。血が瞬く間にぼとぼとと床に毀れる。いったん刃を握ってしまうと、私は止まることを知らないかのように次々切り裂いてゆく。ぱっくり口を開けてだらだらと血を流す傷口で腕がすっかり埋まる頃、ようやく私は正気に戻る。消毒をしなくちゃとか止血をしなくちゃとか、考えることはいっぱいあるけれども、それよりも何よりも、かなしいというか虚しさが私を抱きとめる。おまえは一体これで満足したのかい? これで気が済んだのかい? そんな声が、私の耳の奥で木霊する。 満足なんてしていない。気が済んでもいない。でも、これ以上切ることも叶わないほど腕が傷だらけになっていて、私は半ば仕方なく、刃を置く。それにしても、私は一体何をしているんだろう、こんなふうに毎晩のように腕を切り裂いて、私は何を得たいのだろう。いろいろな問いが次々に心に浮かんでは消えてゆく。 あまりに隙間なく切り裂くために、病院に行っても傷口を縫うことができない。だから医者は細いテープのようなもので傷口をどうにかこうにかくっつけてゆく。こんなことしちゃだめだよ、大事な自分の腕でしょ、と先生が一言言う。私は何も返事ができない。先生の治療は淡々と進み、じゃぁ明日も来て頂戴ね、その一言で治療が終わる。膿んでしまった傷口は、どんなに幾重に包帯を重ねて巻いても、滲み出てくるのだ、膿の色が。私はそれが不思議で、真夜中、じっと左腕にぐるぐる巻かれた包帯をじっと見入る。 先生、リストカットが収まらないんです、どうしたらいいんでしょう。今はどうしようもないわよ、でも、必ず止まる時が来るから、ね、それを信じて、今は止められなくてもいい、必ず止められるようになる日が来るわ、だから大丈夫。主治医に言われた言葉が私の頭の中でぐるぐる廻る。本当に止まるんだろうか。本当に止められる時が来るのだろうか。いや、来るはずだ。娘が生まれてから数年、私は一度もリストカットをしないでここまでやってこれたのだから。いつかまた、そういう時期が来るはずだ。
娘が言う。ママ、あのね、もしみうがいないときに泥棒とかが来たら、ちゃんと110番するんだよ、それからみうにも電話するんだよ、そしたらね、みう、飛んでくるからね。 私も言う。みう、もしママがいないときに危ない目にあったら、いつでもママを思い出すんだよ、そしたらママの心にそれが伝わって、そしたらママ、みうのところに飛んでいくからね。 少し離れている間に、彼女は本当に大きくなった。体はもちろんだけれども、それだけじゃなく、心も大きくなった。あぁ、親の知らない間に、子供はどんどん育って行くんだな、と、改めて痛感する。いや、もちろん、娘を預かってくれている父母の存在のおかげというのが大きく作用しているに違いない。それにしたって。 たまたま、今日病院へ向かう途中で、チラシ配りをしている女の子たちが何人かいた。そのひとりの女の子の腕に、幾筋もの傷跡があり。その場所を通り過ぎてしばらくした後、みうが言った。ねぇママ、あのおねえちゃんの腕にもママとおんなじ傷があったね、ママの方がいっぱいあるけど、でも、あのおねえちゃんも、きっといっぱいかなしいことがあったんだね。 あぁ、そんなふうに娘は思ってくれていたのか、と、いまさらながら私は気づいて、思わず私は空を見上げる。今にも雨が降り出しそうな濃灰色の空。雲にすっかり覆われて、太陽の光のかけらさえ見当たらない。涙がこぼれないようにしばらく私は空を見つめた。そんな私に気づいているのかいないのか、娘はさっさと横断歩道を渡ってゆく。ママ、ほら、早く渡らないと赤になっちゃうよ! 私は自転車をひきずって、早足で娘の後を追う。 ねぇみう、私が腕をざくざく切ってしまうのは、かなしみから来ているのかそれとももっと他のことから来ているのか、今は知らなくてもいいよ。いつか君がもう少し大人になって、そうして二人向き合って性の話をする時が来たとして、あなたが知りたいと言ったなら私は正直に自分の心の中にあることを話すよ。その時は、同じ女同士、まっすぐに話ができるといいね。
眠る前、みうが尋ねてくる。ねぇママ、ママはみうがママのところに産まれて嬉しいでしょ? うん、嬉しいよ、すんごい嬉しい。でもさ、ママは男の子は産まないの? うーん、うーん、そうね、みうしかママは産まなかったね。ママは男の子、産みたくないの? うーん、そうね、産みたくないわけじゃないけど、でも、もうみう以外の子は産まないと思うよ、ママはね、みうが一番なの。そうなんだー、うふふ、みうもね、ママが一番。 窓の向こう、雨は止んだ。そして今、街路樹たちがざわわざわわと揺れている。ざわわざわわ、と。 |
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