2005年10月15日(土) |
前日徹夜だったせいか、昨夜は夜中頃にはどうしようもない眠気に襲われ横になった。瞬く間に眠りに堕ちるその道筋で、私は幾つか、夢を見ていたように思う。
私が最初にピアノの音と出会ったのは、多分外で遊んでいる最中だったのだと思う。大きくなって近所のおばさんから話を聞かされるまで知らなかったが、当時私は、ピアノの上手なお姉さんのいる家の庭に入り込んでは、お姉さんが弾くピアノの音に聞き入っていたらしい。それが嵩じて、私は三つ四つの頃に、ピアノを買ってくれと両親に強請った。まだ貧しかった両親は、何故かこの時だけは、無理をして私にピアノを買い与えてくれた。 それから私とピアノとの付き合いが始まった。途中、私が練習中に先生の手を振り払ったとのことでピアノの教授から絶縁状を突きつけられたりしながらも、それでも私はピアノとの付き合いをやめなかった。小学校時代、転校を繰り返した私は、そのたびに、新しい学校に慣れるまでの間、ひたすらピアノと向き合って時間を過ごした。一日二時間三時間は当たり前、放っておくと何時間でもピアノをがんがん叩き続けていた。 小学校を卒業する頃、教授のすすめもあって、私の中で、音大楽理科を受験することがひとつの目標になった。ピアノを弾くことに対する気持ちは別に私の中では何も変化することはなかったものの、音大へゆくのだという気持ちは、周囲からの期待に応えねばと強張る私の肩に、日毎ずっしりと圧し掛かってくるのだった。 が。様々な小さな出来事が積み重なって、私はその道を逸れてゆくことになる。そのとき私の中で大きく乖離するものがあったことを、私は今でもはっきりと覚えている。まるで、周囲の期待を裏切っていってしまうことはとてつもない重罪であり、それは自分が今ここで生きている、存在しているというその価値までもを揺るがすほどの代物であると、その頃の私にはそう感じられた。そのことが私を、ぶるぶると震撼させた。でもそれは、半分の私であって、もう半分の私は、ひたすら我が道を突き進もうと日々邁進していたのだった。 途中どうしようもない馬鹿馬鹿しい事情から両親によってピアノを取り上げられた時期もあった。それでも私は、ピアノへ対する想いを捨てることは、できなかった。いろいろな時期を経ながら、私はまだピアノを続けていた。そして、これを最期にピアノを卒業しようと思ったのが、あのピアノの発表会だった。その発表会の為に、私は自ら曲を選び、必死になって練習した。 そしてあの朝。 目を覚まし、何か自分の手から受ける違和感があった。が、あまり深く考えず、顔を洗い身繕いをし、いつものように大学へ、そしてバイトへと行った。家に帰宅してさぁピアノの練習をと蓋を開けて。私は愕然としたのだった。右手を使おうとすると右手が開かない、それどころか、痺れて痛みさえ覚える。 あの時の、自分の心情を、一体どう説明すればいいのか、今もって私には分からない。ただ、愕然とした、呆然とした、としか、表現のしようがない。多分、言葉に還元出来るのは、その程度のことなのだろう。私はさんざん慣れ親しんできた白と黒の鍵盤を前に、自分の時間が止まるその音を、聞いた気がした。 どうにか右手を開こう、どうにか右手の指を動かそう、私は必死になって努力した。発表会まであと一ヵ月半、その間必死に練習しなければこの曲を弾きこなすことはできないだろう。私は焦った。焦って、左手でもって必死になって、縮こまる右手の親指と小指とを開かせようと試みた。でもそのたびに、焼けるような痛みが指先から肩まで駆け上り、私に悲鳴を上げさせるのだった。 思い返せば、それまでピアノは、私にとってかけがえのない自己表現の術であった。ピアニッシモからフォルテッシモ、左端から右端まで、白と黒の鍵盤は、いつだって私を助けてくれた。転校当日、新しいクラスメイトに転ばされ、泥だらけになって唇をかみ締めて辿った家路。悔しくて悲しくて切なくて、たまらなかった。母は、服を汚したそのことを叱るばかりで、俯く私にそれ以外の言葉をかけてくれることはなかった。だから私は、自分の中で猛然と猛る感情の全てを、ピアノに、鍵盤にぶつけたのだった。 作曲家を意識してそうして初めて好んで弾き始めたのは、ベートーヴェンだった。彼の記した音符の数々は、私の中に滾る明暗諸々の感情を、激情を、これでもかというほどありありと表現してくれていたからだった。晩年に作られた曲になればなるほど、どうしてと思うような音があちこちにちりばめられていたりする、でもそれが余計に、言葉にはどうやっても還元できぬ人間の内奥のあれこれを、表現し得ているようで、私は必死になって彼の音を辿った。 ベートーヴェンの音を経てふと気づいたら、私は違う地平に立っていた。そこで出会ったのが、バッハとリストの音たちであった。その頃私を教授してくれていたピアノの先生がこんな言葉で或る日私を叱ったことがあった。バッハを弾こうと思うなら、建築しなさい。構築しなさい。そうでなければバッハを弾くことなんてできません。 先生はさらに続けた。たとえばそうね、ショパンは多分、或る意味で物語なの。だからきっと、本を読むように楽譜に身を委ねれば、或いは指から迸り出る想いに身を委ねれば、それなりに弾くことはできる。けれどね、バッハは違う、数学のようにひとつひとつの音を組み立てていかなければ彼の曲を本当の意味で弾きこなすことはできないのよ。さをりちゃん、頭の中で組み立てるの、音を。感情に任せて弾いていい作曲家の曲ではないのよ、構築しなさい、音を組み立てて、高みへのぼるのよ。 言われた当初、私にはその言葉の意味は多分、おぼろげにしか受け止めることはできなかった。しかし、弾けば弾くほど、音が積み重なり交差しながら連鎖しながら、高みへとのぼってゆくのだというイメージは、私の中で強くなっていった。そしてそれはいつでも、教会のあの天辺を突き抜けて、私の見も知らぬ天空へと、羽ばたいてゆくのだった。 話がずいぶん逸れてしまった、元に戻そう。確か、右手を開こうとすればするほど、その指で鍵盤を叩こうとするほどに痛みが私を貫いたというところまで書いたと思う。 あの時、私が発表会で弾こうとしていたのは、リストのとある曲であった。それは、オクターヴの和音やスケールによって曲の殆どが紡がれているような代物だった。しかも、主役は右手ではなく、左手だった。それは不幸中の幸いと言えなくは無かった。だから私は、無理矢理両手を使って、楽譜にすれば二十ページをゆうに越えるその曲を、それでも必死に練習しようとした。確かにそのおかげで、左手だけは上達していった。けれど。 右手が動かない、開かないでは、やっぱりお話にならないのだ。ピアノは両手で奏でられる代物。私は焦った。気が狂いそうだった。一体どうして、何故突然こんなことになったのだ、何一つ、私には理解できなかった。目の前の現実が受け入れられなかった。気づけば私は汗だくになって、鍵盤の前、足掻いていた。 それから二週間近く、私は一体何度、鍵盤の前を行き来しただろう。一体何度、痛む右手を抉じ開け、動かそうと試みただろう。しかし、その全てが無駄に終わった。それだけじゃない、私の右手はぶるぶると痺れ、鉛筆を握ることも箸を握ることもできなくなっていた。大学の授業に出席してもノートをとることができない、空腹を覚え箸で食べ物を口に運ぼうと思っても何一つまともに運ぶことが出来ない。日常のあちこちで、私は躓いていった。躓いて転び続け、いつか、それでも立ち上がるということに私は疲れてしまった。 そして、私は放棄したのだった。発表会を、辞退した。もうすでにプログラムは印刷に回されており、今更私の名前を削除することは不可能だった。プログラムの最期に記された私の名は、そのまま宙に浮いた。 それから半年近く、私の右手は不自由なままだった。が。不自由が突然私の右手に墜落したように、その不自由さは突然、私の右手から去っていった。鉛筆を普通に握れるようになり、箸も操れるようになり、開こうと思えば思い切り、指と指を開くこともできるようになった。でも。 そこにいるのは、もう二度と、ピアノと正面から向き合うことができなくなった自分、だった。
怖かった。恐ろしかった。またあんなことがおきたらどうしよう、そんな不安がどうしようもなく私に襲い掛かった。 でも多分。今だからこんなふうに書くことができるが、多分、不安だけじゃぁなかった。私は。 自分が、以前のようにピアノを弾くことができないこと、そして、それをもはや内外に誇ることができないというそのことに、打ちのめされていた。 ピアノはもう、私にとって、自己表現の術ではなく、自分を辱める存在に、変貌していた。
今、私のピアノは実家にある。大学卒業後就職し一人暮らしをし、PTSDを患ってから途中、ピアノを一人暮らしの部屋に運びこんだこともあった。外界と接触できなくなった私には、ピアノは、味方になってくれる筈だった。が。私は、ぽろんと鍵盤を撫で、単音を出すことはできても、もう曲を弾くことはできなかった。恐ろしくて恥ずかしくて、できなくなっていた。そうしているうちに、私の指の筋肉はすっかり衰え、多少の練習ではもう、取り返しがきかなくなっていた。 だから今、私のピアノは実家にある。もう誰も奏でることのなくなったピアノは、古びて、何だかもう、置き去りにされた家具のひとつのようにさえ見える。 なのに。私は娘に、電子ピアノを買い与えた。それは去年の冬のことだ。まったく自分という人間が一体何を考えているのか、私はつくづく不思議に思う。もうまともに鍵盤を叩くことができない私の傍らに今更鍵盤を持ってきて、一体どうするつもりなんだと思う。呆れてものが言えない。 でも。 時折娘が、思い出したように電源を入れ、鍵盤をばしばし叩いて出す音の数々は、もう私を苛めたりさげずんだり、するものではなかった。むしろ、あぁまた弾きたい、そう思わせるものに変わっていた。それでもまだ、私は今日というこの日まで、鍵盤と向き合ってはいないのだけれども。
夢の中で、私は何処か宙を漂っていた。いや、私であって私ではない、何かしらの肉体を用いて、私はどうにかこの地に繋がってはいた。その肉体が、ゆっくりと動き始める。左手が、右手が、さんざん慣れ親しんできた鍵盤へと伸び、深い深い深呼吸ひとつの後、動き始める。それはやがて、ひとつひとつの、あの懐かしい音色となって、駆け出してゆくのだった。 あぁまたピアノが弾けるんだ、あぁまたこんなふうに旋律を奏でることができるんだ、和音を響かせることができるんだ、私は、その歓びに呑み込まれ、もう一体自分が何処に居るのか、そんなことどうでもよくなっていた。そう、かつて私はこんなふうに音を楽しんでいたのだ、音に乗ってあの時泣けなかった分をピアノの前で泣いたし、あの時笑えなかった分を思い切り笑ったし、そうやって私は、自分の中の空洞をひとつずつ埋めていくことができたのだ。ピアノは、私にとってかけがえのない存在、伴侶だった。 今更ながら、そのことを思い出し、噛み締めながら、私はなおも駆けていた。そして、思うのだった。今はまだ、鍵盤に触ることはできないかもしれないけれど、いつかまた、いつかまたきっと、鍵盤に触れよう、もう何も憚ることはない、恥じることもない、ただ思う様戯れればそれでいい、そう、ピアノはもう敵でも味方でもなく、私の隣にただじっと在る、そんな存在だったのだ、と。
夢が醒めてからも、しばらく私は彷徨っていた。夢と現実の間を、うろうろしていた。娘が寝返りをうつ、その仕草に肩を押され、私は我に返った。 最初に背筋に悪寒を覚えた私は、咄嗟に右腕を上げ、右手を動かしてみた。動く。痛みもない、痺れもない、大丈夫、無事だ。右手の無事が分かり、私は安堵する。そうしてぼんやりと右腕を眺め、ようやく私はさっき見ていた夢のひとつ、ピアノのくだりの夢を、反芻する。隣では、娘が、規則正しい寝息を立てている。 音を立てないように気をつけて、私は窓辺に立つ。まだ夜明け前で、でも、窓の外は少しずつ、白み始めていた。私は足音を忍ばせて、隣の部屋へ行く。 そして。電源を入れた。ボリュームを思い切り下げて、私は椅子に座る。そして。Aの音を、ひとつ、出してみた。電子ピアノの鍵盤は、私がさんざ慣れ親しんだアップライトのピアノの鍵盤とはもちろん全く違う感触をしており、私の指はちょっと縮こまる。でも。 思い切って、あの曲を辿ってみた。もちろん、もう十何年もまともにピアノを弾いていないのだ、指が思うように動くわけがない、私の指は、鍵盤を何度も外し、何度も滑り、そのたび少し、私は苛々する。でも。 記憶しているものなのだな。私は思わず苦笑する。頭の中に楽譜があるわけではない、が、私の指は、一度弾き始めると、あの曲をしっかり記憶していて、勝手に動いてゆくのだった。そうしているうちに、私の脳味噌は、その奥底から記憶を引っ張り出し、気づけば額の裏あたりに楽譜がはっきりと浮かび上がり、私は、指さえ転ばなければ、まっすぐに曲を辿ることができた。弾きながら、あの当時とは違うな、と、私は感じた。いや、違うのは当たり前だ、今の私の指はもうあの頃のように動くことはできなかったし、鍵盤の重さも違う、すべてが違っていて当たり前だった。しかし。そんなこととは別個のところで、私は自分の中に、明らかなる相違を感じた。 それは、私が、弾くことそれ自体を楽しんでいるという、そのことだった。 多分私は、自分の心と鍵盤とを密接に繋げすぎていて、だから、これでもかというほど鍵盤に対して私の心は作用し、或る意味正直だった。だから、幼少時から常に愛情に飢えていた私が弾く音色は、いつだって飢餓状態で、それは言い換えれば、誰にでも噛み付く狂犬だった。そんな音色はだから、他人の心に牙を剥きはするけれど、抱きしめ得る代物では、あり得なかった。 いつだったか、先生から言われた言葉を思い出した。「さをりちゃんの弾くピアノはね、凶暴すぎるのよ、静かな曲でも激しい曲でもそれは同じ、時々耳を、というか、心を塞ぎたくなるの、苦しくってね。でもね、音楽というのは、音を楽しむと書くのよ、音によって人は癒されもするし笑うこともできる、音によって人は優しくもなれるし切なくもなれる。もっと言えば、遠くの誰かの傷を、救うことだってできてしまうかもしれない、そんな代物なのよ、音楽というのは。分かるかしら?」 今なら、ほんの少し、ほんの少しだけ、分かる気がした。気づけばもう、私の指は、曲の最後に辿り着いており。私は最後の和音に、ゆっくりと、そしてそっと、指を下ろした。電子ピアノの小さな音は、そうして止んだ。もう窓の外は、すっかり明るかった。 私は電子ピアノにカバーをし、電源を切る。椅子から立ち上がり、窓際に立ってみる。朝の風は微かで、街路樹の葉はちらり、ちらり、としか揺れはしない。でも、昨日より今日、今日より明日と冬へ向かう朝の空気は、肌をちょっと震わす程度には冷えており、私の首筋をつるんっと撫でてゆくのだった。
------今はもう午前二時過ぎ。また新しい朝がもうすぐそこまで近づいてきている。まだ眠らない私には、もちろん夢も訪れない。昨日のように、夢に追われることは、ない。 でも。 私は、右手をそっと開いてみる。また練習したら、ピアノを弾くことができるだろうか。思う様鍵盤を滑ることができるだろうか。 分からない。でも。 せめて、娘に弾いてやることくらいは、できるかもしれない。今、これを記しながら思う、教えることはできなくても、弾いて聞かせることくらいはできるかもしれない、いや、そんなことは棚上げしても、私は多分、いつか、ピアノをまた弾きたい。そう、思っている。 窓の外は今、もちろん闇色だ。その闇はぬらりと深く濃く、横たわっている。今夜はずいぶんあたたかくて、開けた窓から入り込む空気はぬる過ぎると言ってもいいくらいだ。私は、振り返って、娘の寝顔を見やる。ぽっと小さく開いた唇からすうすうと息が漏れている。布団を蹴っ飛ばして身体をぐにゃりと傾げて眠っているその顔は、何というか、あまりに泰平で、苦笑してしまう。 明日は実家へ遊びにゆく日だ。実家へ行ったなら。両親に見つからないよう、娘にも見つからないよう、こっそりとピアノを拭いてやろう。きっと埃だらけに違いない。蓋は、蓋はまだ、開けなくていい。いつかその日が来たら。きっと。 |
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