2005年11月20日(日) |
ようやく少しだけ眠れる。丑三つ時、目を覚ました私の隣で、幼友達が規則正しい寝息を立てている。私はその友の寝顔をしばらく見つめ、再び横になってみる。眠れなくても、とりあえず横になっていれば、少しは疲れが和らぐかもしれない。そう思って。
昨日、19日。眠れなかった。身体はぐったり疲れているのに、横になるのが怖い。立ち上がればふらりと身体が揺れてしまうのに、横になって休むことができない。身体は眠って休みたがっているのに、私の神経は異様なほどすっくと起立し、だから私の両目は闇の中、くっきりと見開かれたまま。 その緊張の糸が、小さな画によって弾かれた。だから私はそれを合図に、部屋を飛び出した。このまま一人この部屋に閉じこもっていたら、私は自分の身体を切り刻んでしまうに違いない、だから飛び出した。右手に握しめていた刃をとりあえず鞄につっこんで。 鞄の中、他に咄嗟に詰め込んだのは、ウォークマンとカメラとノートと財布と薬と、とりあえずプリントアウトしてみた数枚の地図とそして何故か体温計。家を飛び出す直前確かめた時刻表、始発の時刻に間に合うために、私は早足で歩こうと試みる。でも、身体がふらつく。考えてみれば、この約二週間、殆ど横たわって過ごしていたのだから、身体がこんな反応を起こすのも当たり前ではある。けれど、私は何かに追われるようにして先を急いだ。そして飛び乗った始発電車、呼吸が上がってしまい、うまく息が吸えない。 唐突に飛び出した。ふと見つけた光景に惹かれ、そこへ行けたらいい、くらいのつもりだった。何故なら、私はその場所への確かな行き方を知らなかったし、そもそも今の私にそこへ行って帰ってくるだけの体力があるとは思えなかったからだ。それでも、行こうと試みるくらいなら赦されるんじゃないか、自分の身体をこれ以上切り刻まないで済むなら、たとえ辿り着けなくてもとりあえず飛び出してしまった方がましなんじゃないか、そのくらいの気持ちだった。 ひとりで行くつもりだった私の脳裏に、幼友達のTの顔が浮かぶ。その顔に誘われて、私は思わず電話を掛けてしまう。恐らくめちゃくちゃな論理を披露して主張しただろう私の身勝手な話に、余計な言葉を挟むことなく耳を傾け、そして言ってくれる。一緒に行こう。 だから早朝、見知らぬ駅で私たちは待ち合わせ、合流する。その頃にはもう夜は明けて、街は少しずつ気配を露わにし始めており。けれど私たちの吐く息は白く。とりあえず友に、私が鞄に突っ込んできたつぎはぎだらけの地図を渡す。友は笑ってそれを丁寧に畳んでしまい、黙って歩き出す。
もし私一人だったら、ここまで辿り着くことは叶わなかっただろう。友が導いてくれた。そして今、私の目の前には、海が在る。 横浜とは全く異なる様相を呈するその海は、高く厚く、幾重にも波を交叉させ、砂浜に砕け散る。人影は何処にもなく、私と友と、二人の影のみ。そして、音を立てて私たちの目の前で砕ける波と、その向こうには真っ直ぐに伸びる水平線が、じっと横たわっているのだった。 私は裸足になる。足の裏に触れる砂は柔らかく温かく、まるで洗い立ての毛布のように私の足を包み。気づいたら私は、波の中にいた。
温かく、何処までも温かく滑らかな波が、私の足を抱きこんでは解いてゆく。ふと左を見やると、千鳥が波打ち際で右に左にと走り回っている。波が引けば駆け出して波の足元へ向かい砂を突き、再び波が砕け寄せてくればたたたっと走り浜へ逃げる。その繰り返し。餌をついばんでいるのはもちろんその仕草で分かるけれども、まるで人の幼な子のよう、波とじゃれあっているように見えて私は思わず笑ってしまう。 波がまた寄せてくる。私の足を抱きこむ。温い海水がするりと私の足をくぐり、そしてまた海へと戻ってゆく。私はされるがまま、招かれるまま、波と戯れる。 知らぬ間に私はおのずと歌い始めており。波もまた、そんな私に一向に構うことなく、あるがままそこに在る。 あぁ、解けてゆく。 ここには今、私が欲するものすべてが在った。まっすぐに高い空と、止まることを知らぬ澄んだ風と、視界をぱっくり切り裂くように伸びる水平線と、そして砂と波と。これ以上望むものなんて、他に何があるだろう。 しかも、私の心の中には、今朝早く連絡をくれた遠方の女友達からの声が在り。振り返ればそこには、黙ってつきあってくれる幼友達の姿が在るのだった。
私の中に巣食っていたしこりが、少しずつだけれども解けてゆく。解けてゆく、解けてゆく。病院に駆け込んだ日から私を蝕み始めたモノが、それらから垂れ流され溜まる一方だった膿が、今、ようやく流されてゆく。 割れる波の音にはっとして、目の前の波に目を戻し、私は思わず声を上げて笑ってしまう。その笑い声に、私は、自分が笑っていることを気づかされ驚く。ああそうだ、こんなちっぽけなことで、こんなどうしようもないことで、私は追い詰まってしまっていたんだ。そのことに気づいて、私はまたさらに笑う。 悔しかったんだ。虚しかったんだ。病なぞに食われた自分が。 原因が分からないとあちこちをたらい回しにされ、それでもなお病名は定められることもなく。不安ばかりが募った。こちらが不安になる要素しか、そういった言葉しか、医者はくれなかったし、それをひとりで受け続ける私は、熱と痛みにのた打ち回るばかりで、とても冷静に耳を傾ける余裕はなかった。これこれこういう状態なんだと説明しても自業自得でしょ、生活習慣病なんじゃないのと笑う両親に、自分の世話を願うことなどできず、せめて娘だけでも預かってくれと頭を下げた。仕事を為そうにも何もできず、焦るばかりの時間だった。そして私はあっという間に、不安の魔物にとりつかれた。そして思い知った。自分はとてつもなくひとりであるということを。
そんなこと、もうとっくの昔に分かってることだった。人は生まれるのも一人なら死ぬのも一人だ、なんてことは。でも、私は、そんなの耐えられないと泣き叫ぶ自分の半身を見つけてしまった。いや、生まれるのも死ぬのもそんなこと一人でもいい、でも、独りで生きるのはいやだと、赤子のように泣き叫ぶ自分の半身を、見つけてしまった。 そしてもうひとつ。 あんなに必死にあの日々を越えてここまで来たのに、PTSDなんてものとつきあってそしてようやくここまで生き延びてきたのに、いずれは身体的病で死ななきゃならないのかと思ったら、それが耐えられなかった。PTSDに食われて死ぬ方が、私にはずっと納得がいく。身体的病になんか呑み込まれてたまるかよ、私の内奥がそう叫んでいた。何の為にここまで生き延びてきたんだよ、何の為にここまで生き残ってきたんだよ、PTSDなんて代物、性犯罪被害者なんてレッテルを頂戴しながらも、それでも必死こいてここまで生きてきた、なのに、いざ死ぬときは身体的病によってです、ってか? 冗談じゃないよ。 もうこれ以上独りでいたくない。いや、人はどうやったって一人だ、生まれるのも死ぬのも一人だ、でも、ならせめて、独りで生きたくはない、と。私の内奥が喚いていた、喚いて喚いて、泣き叫んでいた。 あぁ、私はやっぱり、これっぽっちの人間だったのか、と、思い知らされて、私は嗤った。おかしくて、ばかばかしくて、だから思いっきり腹の底から声を上げて嗤った。 私の声は瞬く間に波に呑まれ、何処へ届くこともなく消滅する。それでも。 今は、声を上げることを止めたくはなかった。諦めたくない、まだ諦めたくはない、私の全身が、そう、叫んでいた。
とくん。 今朝、私を電話の向こうから励ましてくれた、気をつけて行ってくるんだよと送り出してくれた友の声がひとつ、脈打つ。 とくん、とくん。 眠りを邪魔されたにも関わらず、私につきあい、私をここまで連れてきてくれた幼友達の影がひとつ、脈打つ。 とくん、とく、とくん。 諦めたくない、と、その塊だけになった私が脈打つ。 とくん、とくん、とく、とくん。 左腕に巻かれた包帯の下で、私の傷口も、うん、と頷く。
そうだ。私は所詮一人だ。何処までいっても一人だ。それは、私がこれまでの道々、自分で選んできた結果だ。その最中に確かに、PTSDなんて厄介な荷物を背負い込んだ。でもそれも、一つの運命だ。そして、私がいつか、その精神でなく肉体を蝕まれて死んでゆくとして、それもまた、一つの運命だ。それらは、私ごときがどうこう操れることじゃない。だったら。 あるがまま受け止めるだけだ。そして、一人であっても独りではないよう、私は声を上げ、手を伸ばし、足掻きながら、今日をめいいっぱい使い果たすのだ。
おーい。 後方で声がする。振り返ると、幼友達が呼んでいる。少しずつ傾き色づき始めた陽光に手をかざしながら、私も手を振って応える。 私は。 私は一人だ。でも、独りじゃぁない。 私は裸足のまま砂浜を走り友に駆け寄る。友がやさしく言う、もう身体が冷える、帰ろう、と。 さあ、靴はいて、帰ろう。 うん、帰ろう。 そういえば、今日まだ何も食べてなかったね。いい加減何か食べよう。 うん、食べよう。ねぇ。 何? またここ来ようね、一緒に。 そうだね。
砂山のてっぺんで、私は一度だけ振り返る。波は変わらずに砕け続け寄せ続け、海はまるで歌うようにそこに、在る。 |
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