2009年09月08日(火) |
今日もまた早くに目が覚める。時計を見れば四時半。外はまだ薄暗い。 ベランダに出て薔薇の樹を見やる。淡い杏色の花はもう開ききっており、その脇で白の薔薇も開いている。逡巡した後、私は鋏を持ってくる。パチン。鋭い音が響き、薔薇の花は落ちる。私はそれを、ガラスのコップに挿してみる。一度挿したものの、何か違和感を覚えしばらく見つめる。あぁ、もう新芽がここから出ているのか。私は枝を三つに切り分け、新芽が出ているところを潰さぬよう、挿し木をする。残った花だけを、ガラスの中の水に浮かべる。これでいい。 顔を洗って気がついた。一つ吹き出物ができている。何となく昨日から気配はあったものの、やっぱり出てきてしまったか。がっかりしながら私は化粧水をはたく。まぁもうできてしまったものは仕方がない。治るのをじっと待つしかない。 時間がいつもよりあるので、早々に水遣りを済ませることにする。アメリカン・ブルーはてろりんと枝葉を垂らし微風に揺れている。ラベンダーは、どうもだめだ。土が合わなかったのか、それともアメリカン・ブルーに勢いを全部持っていかれたのか。どっちか分からないけれども。再びベランダに戻り薔薇たちにも水をやる。マリリン・モンローとホワイトクリスマスに新しい蕾がまた生まれている。そうだ、いい加減そろそろ液肥をやらないと。蕾を撫でながら思い出す。今日出掛けた帰りにでも買って帰ろう。私は手のひらに、ボールペンで、液肥、と書いておく。これで多分忘れない。 ミルクが、人の気配を感じたのか、眠そうな目をしょぼしょぼさせながら巣から出てくる。おう、おはよう、声をかけると、とたんに目がきょろんと開く。私は噛まれるのがイヤなので、とりあえずかごの外から、あれやこれや話しかける。娘と間違えているのか、手に乗せてくれ、というような具合で一生懸命近寄ってくる。ごめんよ、私はこれから仕事。それだけ断って私は立ち上がる。ココアはまだしっかり眠っているらしい。
昨日は、診察の最中も、頭は娘のことでいっぱいだった。そう、前の日に聞いた林間学校の話、それから少し前に聞いた、奇妙な噂話。それらと娘とがぐるぐるぐるぐる頭の中を回っていた。 学校に相談しようか、それとも留めておこうか。どうしよう。その最後の決断が、なかなかできなかった。でも。 このままでいても何も変わらない。学校に相談したからといって結局何も変わらないかもしれないが、それでも、何もしないでいるよりはましかもしれない。 病院からそのまま私は学校へ向かう。呼び鈴を押し、名乗り、校長先生か副校長先生に話があるのだが、と切り出す。 実は。こんなことがあったのですが。 そう切り出して、私は、自分がひどく緊張しているのを感じる。でも、もうここまで来たのだ。全部話すしかない。自分を追い立てるようにして話を順々にしてゆく。校長の留守、副校長が話を聞いてくれた。副校長はメモをとりながら、私の目を見つめ、話を聞いている。 一通り話し終え、問題点を確認し合い、今後の対策を話し合う。 どのくらい時間が経っただろう。正直覚えていない。でも、11時半頃バスを降りたのだから、バス停の隣にある学校に入ったのもそのくらいの時間だろう。家に戻ったときには、一時近くになっていた。 家に戻り、椅子に座って、突然、涙が出てきた。
私は、幼少期の父母からの精神的虐待から、他人、特に大人、権力を持った人間と相対することがひどく苦手なのだ。向き合っただけで萎縮してしまうところがある。相手の顔に父母の当時の顔が重なり、それだけで恐ろしくなるのだ。 まだそれを克服していなかったか、と痛感する。わけもなくとにかく次々涙が出る。私は鼻をすすることも忘れ、ひたすらに泣いてみる。あぁ疲れた、そう、とても疲れた。私は疲れた。 それでも、憤ることもなく、目をそらすこともなく、話をうやむやに終わらせることもなく、きちんと話し合いができた。そのことをまず、自分に確認した。 そして、メモを取り出し、今日話したことを書き記す。 その中で、副校長が、担任が何を言い訳しようと娘さんにそういう記憶として残っている、傷が残っているということが何より問題ですよね、大切なことですよね、と、私に繰り返したその言葉が、ありありと蘇り、私は大きく息を吸う。 私は校長室に入る前まで、きっと担任の言い訳を聞かされるのだろうな、と思っていた。でも、副校長はそれよりも、娘にそう記憶されていること、それこそが重要なのだと言った。そのことは私を、ほっとさせた。あぁ少なくともこの人には、九歳の娘の話にちゃんと耳を傾けようとしてくれているのだ、と、それが何よりも私の救いになった。 そしてまた、娘はこれを話すことを決して望んでいなかったことも汲み取ってくれた。
これから事がどう動くのか、何も変わらないかもしれないし、何か変わるかもしれない。どちらにしても、私はしっかり見つめていよう、見守っていようと、強く思う。娘が帰ってきたら、改めて、話してくれてありがとうとえらかったよと言おう。これからもこういうことはちゃんと話してね、と言おう。 だから、だから今はちょっとだけ、私に休みをおくれ。私にはしんどかった。とてもとてもしんどかった。だからもうちょっとだけ泣かせておくれ。私の中のまだ傷ついている子供が泣き止むまで。
気づくと、私は床に倒れこんでおり。娘の呼び鈴を押す音ではっと目を覚ます。起き上がり鍵を開け、娘を迎える。運動会のパンフレットを貰ってきた娘は、こことここで自分が放送係をやるからちゃんと聞いていてねと繰り返す。うんうん、分かった。こことここね。印をつけながら話を聞く。そして、さっき言おうと思っていたことを彼女に告げる。 どう彼女が受け止めたかは分からない。でも、とにかく伝えた。これからも事あるごとに伝えなければならないことなんだろう。私はそのことを肝に銘じる。自分の中に溜め込んで溜め込んで、そうして黙ってしまう娘だからこそ、伝えてゆかなければ。主張することも大切なことなのだよということを。誰かを傷つけてもそれでも自己主張しなければならない場面もこれからでてくるんだよ、ということを。
塾に出掛ける彼女を見送り。再び私は倒れこむ。気づけば細い廊下に倒れて時計は五時半。こんなこと久しくなかった。少し慌てながら、私は頓服を飲み、身支度を整え、家を出る。 娘が帰ってくるのは八時半だけれども、それまでに自分を立て直さなければ。そう思い、思いつくことを次から次にやってみる。自分が落ち着くこと、自分が気分を立て直すきっかけになるようなこと、全部。 そうして気づけば午後八時。娘から息切れした声で電話が入る。電車に乗るよ。うん、分かった。いつもの場所でね。じゃぁね、あとでね。
そうして一日は終わった。
朝の仕事をしながら、私は昨日のことをあれこれ思いめぐらし、そして、自分の弱点の一つを改めて実感する。これはいつになったら克服できるのだろうな、と。そう思いながら。 父母の、言葉の暴力は容赦なかった。それに晒されて私は育った。ただそれだけのこと。ただそれだけのことなのに。 今の父母との関係はもう違う。そのことも、私はちゃんと分かっているはずなのに。 亡霊のようにまとわりつく過去の記憶、刻み込まれた記憶の強さを、私はこれでもかというほど実感する。
それでも私は、今回のようなことがあるたび、向きあっていくしかないのだ。 私は娘の母親。同時に娘の父親。父であり母である私は、向き合っていくしかないのだ。 朝の支度もいい加減なまま、ミルクとココアと戯れている娘の横顔を見ながら、私は自分にそう呟く。
さぁもう時間だよ。出るよ。娘に声をかける。娘が慌てて手を洗いにゆく。朝というのは不思議といつも忙しい。 じゃぁまたね。手を振り合って娘と別れる。娘は学校へ。私は埋立地の方へ。 空はどんより曇っている。すっかり涼やかになった風が私の髪を揺らし流れてゆく。信号が青に変わった。さぁ漕ぎ出そう、いつもの場所へ。 |
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