2009年09月20日(日) |
妙な夢で目が覚める。不快な感触の残る夢だったので何より一番先に顔を洗う。時間をかけてばしゃばしゃと。それでもまだ感触が抜けない。巨大な蛞蝓に肌を這われたような、生々しい不快な感触。朝から早々、大きなため息が出てしまう。 髪を梳きながら、朝焼けを見やる。このところいつも横たわっていた雲がなく、地平線あたりまでもがすっきりとしている。あぁきっと今日も晴れ上がるのだ、と私は大きく伸びをする。背筋がきゅっと伸びて気持いい。さっきまでのあの不快感が少し拭われたよう。少しでも早くこの感触から抜け出たい。
実家の裏にある小さな山は今、芒と栗の実で溢れている。散歩して来た娘の両手に、その成果がどっさり。私も昨日歩いた。昔はもっと草深く、木も茂っていた。山に登っては、アケビの実を食べたりしたものだった。自分のとっておきの場所があって、そこでじっと時間を過ごすのが好きだった。今はもう、ない。 この連休は稲刈りの時期なのだろうか。裏の山の裾に広がる黄金色の海が、次々刈られてゆく。でも、面白いもので、刈る人によってその様は違ってくる。四方から回り回って中央へ攻めてゆく人、片側から順々に刈ってゆく人、一部だけをきれいに残したまま他を刈りこんでゆく人、これはきっとみんな、楽しんでやっているんだろうなぁなんて、気楽なことを考えてしまうほど、それは本当に様々で、眺めるのが実に楽しい。その合間合間にまだ緑の畑が横たわっている。 この山も、二号線が通ったことで本当に姿を変えてゆく。見るたび違う。いつかなくなってしまうという日も来るのかもしれない。娘が大人になるまで、せめて残っていてほしいなと思う。散歩する山が近くにあるってとても素敵なことだから。
先日の運動会の練習で、娘が背中を痛めて帰って来た。ピラミッドの際、一番下の担当で、でもその上に娘よりずっと大きな子が乗るのだそうで。その子の肘が思い切り背中に当たってしまったのだという。その日から娘の背中には湿布がぺたりと貼ってある。 どうして孫より大きな子が上に乗るのか、どうしても納得ができない父母が、何度も私に訴えてくる。大きな事になる前に何とかしてもらったら。 でももう運動会一週間前だ。正直、私はあの件以来、学校をさらに信用しなくなっている。訴えることは簡単だ。でも、それで娘の肩身が狭くなるようだったら意味がない。娘にそっと尋ねてみる。ママから先生に言ってみる? ううん、いい。もういい。 もういい、の意味がどういうもういいのか、私には今正直分からないが、彼女がそう云うなら今回は見守っているしかないのかもしれない。私は父母の訴えをするりするりと交わしながら、とりあえず黙っている。
バス停までの道で、かつての同級生とすれ違った。彼女は私に気づかなかったが、彼女は幼い頃の面影を大きく残して大人になったようで、私にはすぐに分かった。でも私は声をかけなかった。 こういうとき、ふつうはどうするのだろう。声をかけるべきなのだろうか。でも。 今の私には、小学生の頃の同級生と話したいことは見当たらない。今を生きることに精一杯で、思い出に浸っている時間はない。振り返れることは身近なことたちばかりで、長いこと隔たりのあった人を引きとめてまで話せる事柄など、今の私にはない。 そのことに気が付いて、小さく苦笑した。寂しいような切ないような、でもこれが今の私なのだなという納得のような、交差する思いが押し寄せて、消えた。 娘を置いて早めに実家を出る。 家にはミルクもココアもいる。やるべきことがある。私の帰る場所は、結局そこなのだ。
電車に揺られながら、西に傾いてきた日を見やる。眩しくて痛くて、それははり裂けそうな傷口のようだ。傾き始めた日の足は実に早く、あっという間に地平線に届く。私はそれを一瞬も見逃したくなくて、目を細め、ひたすら前を見やる。 家に帰ったらまず水やりをしよう。ミルクとココアにキャベツをやろう。金魚に餌もやらなければ。昨日ぷっくら膨らんでいたマリリン・モンローの蕾は今日一日でどうなっただろうか。もう綻び始めただろうか。それともホワイトクリスマスの方が先に綻んでいるだろうか。 耳につけたヘッドフォンからは、マイケル・ジャクソンのYou are not aloneが流れている。それが終わるとCoccoの絹ずれへ。 ちょうど曲が切り替わったところで電車のドアが開く。私は押し出されるようにしてホームに降り、階段を下りる。この駅はいつ通っても忙しい。それでも、ここは間違いなく私の駅だ。家に一番近い駅だ。だからほっとする。あとバスを乗り継げばもう我家なんだと。 大きな荷物を背負って歩く親子連れの横を俯きながら通る。私たち親子にも、あんな時間がいつかあるだろうか。 一日がやがて、終わろうとしている。 |
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