2009年10月05日(月) |
まるで人形がその目をぱちりと開けるように目が覚めた。その直前のことも見た夢のことも一切覚えていない。きっかりと目が覚めた。 そういえば昨日は疲れ果てていて、早々に横になったのだった。多分娘より早く寝入っただろう。途中一度だけ起きて、娘がつけっぱなしにしていた灯りを消して回った覚えはあるが、それ以外何も覚えていない。そのくらい、疲れていた。 閉め忘れた窓からベランダに出る。髪を梳きながら空を見上げる。重たげな空だ。今日もまた雨が降るんだろうか。少し憂鬱。でもまだ雨は降り出してはいない。これなら自転車で出掛けても大丈夫だろうか。この週末乗れなかった自転車に、今日は乗りたい。 ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは元気だ。パスカリの一本が少し、疲れたように見えるのは気のせいだろうか。ひととおりの蕾は咲き終わり、今は次の芽が出てくる時期。薔薇はその内に計り知れない力を秘めて在る。そんなときはとりわけ、静かに見える。 まだ通りを行き交う車もない時刻。私はベランダの手すりに寄りかかり、街路樹を見やる。散り落ちる葉が徐々に徐々に多くなってきた。そういえばあの銀杏並木では、二本の銀杏からぎんなんがたくさん落ちて、人の足に潰されたそれが独特な匂いを放っている。それにしてもちょっと変だ。二本のぎんなんだけが落ちてくるというのは。何故なんだろう。 ミルクとココアも今日は静かに眠っている。金魚だけが、わらわらと私の影を追って忙しげに泳いでいる。
娘を迎えに行った帰り、娘と一緒に珍しくデパートに立ち寄る。言ってしまえば、私が夕食を作る余力がなかったからで、何か安い食材があればそれで夕食を済ませてしまおうという魂胆だった。何がいいかなあ、ママこれは? それはちょっと高い。あ、試食がやってる、食べてもいい? いいよ。もらっておいで。おいしいけど、これ、高いねぇ。高いねぇ。これじゃぁ無理だ。他のにしよう。じゃぁこれは? あ、安くなってる、これがいいかも。じゃ、一つはこれ。もう一つは? うーん。野菜がいいなぁ。そんなこんなで、私たちは、作ればもっと安くなることがわかっていながら、麻婆豆腐と野菜の塩炒めを買った。そしてその帰り道、娘にねだられ、アイスクリームを一つ。半分ずつ食べる。 バスの乗りながら、週末のことをあれこれ話す。 娘が突然、言い出す。ねぇママ、うちにも金木犀あったらいいねぇ。あら、どうして? だってすごくいい香りだもの。あったらいいなぁ。うーん、あれはとても大きく育つから、ベランダじゃぁ無理だなぁ。いつかあなたが一軒家でも建てたら、そのとき植えたらいい。それまで無理かぁ。じじばばの家のがあるじゃない。うーん、でもなぁ、そばにあの香りがあったりいなぁと思ったの。 私と同じようなことを考えている娘。こういうところ、親子なのかなぁなんて思う。
訪れた美術館は二度目で、前回と同じく静寂が漂っている。油絵の具を使ってのガラス絵を飾られており、私は順繰り見て回る。ガラス絵というと油が多いけれど、私はやっぱり、水彩絵の具でのガラス絵が好きだ。清宮質文先生のガラス絵が、私は多分一番好きなんだと思う。あの、漂うな色合いが、ガラスの透明さと相まって、何処までも何処までも広がってゆくように見える。あの澄んだ色合い、あの空間性、あれは、水彩でしか出せないだろう。清宮先生のアトリエを訪れたとき、先生の、ガラスについて調べたノートをちらり見せてもらったことがある。光の屈折度などについても実に詳しく書かれていた。それらをすべて頭に入れた上で、ガラス絵を作っていたのだなと思うと、それは途方もない作業で、先生がどれほど神経を使ってそれを描いていたのかがうかがわれる。西に傾いた燃えるような夕日を描いた作品などは、見ているだけで涙が溢れてくるような、優しく切ないものだった。何度見てもあれは、立ち止まってしまう。 ガラス絵。ガラスという素材を使っての絵でも、無限の術があるのだな、と、思い知らされる。
誰もいない喫茶店。ふと視界に入った何か。あぁ雀だ。まだ子供なのだろう、とても小さな小さな身体で、ちょこんちょこんと飛び跳ねながら、何かをついばんでいる。 ここに来る途中、立ち寄ってきた公園では、鳩が忙しげに、落ちたどんぐりを啄ばんでいた。その傍らにぽつり在る池には、茶色い葉が幾つも散り落ちていて、でも、静止画のようにそれは止まったまま。私はしばしそこに佇み、じっと見つめていた。 かつて、この池の色を毎日毎日見に来たことがあった。深緑色に輝くこともあれば、褐茶色の底を見せていることもある。光を浴びてきらきらと白緑色にさざめくこともあれば、深く沈んだ瑠璃色に見えることもある。たった一つの池の中、繰り広げられるその様に、私は毎朝驚嘆したものだった。そして、私が見るものは、私というフィルターを通して受け止められていることを、つくづく感じたものだった。自分の心が暗いときは、私のフィルターも暗くなり、おのずと池の色も暗く澱んで見えたものだった。一方、心が晴れやかなときは、池の色もさざめき輝いて見えたものだった。 すべては私の心次第。そのことを、私は池を見つめることで改めて知ったのだった。
今頃、父母は、別荘へ向かっている頃だ。もしかしたら私よりずっと早起きして、今頃にはもう到着しているかもしれない。電話もテレビもない別荘。でもそこは、父母にとって、憩いの場の一つなのだ。部屋の壁にかかる時計も小さく、ただ一つきりで、時間に追われることもなく、ゆったりと過ごせる場所。早く母を元気にさせたい父が、緑内障の恐れのある目で必死に運転し、連れてゆく。私が運転できるなら、私がふたりを連れて行ってあげたい。そして、あの空間で好きに過ごさせてあげたい。そう思う。残念ながら、それが叶うことはないのだけれども。 そろそろ向こうは寒くなる季節。長袖に上着が必要な季節。風邪など引かなければいいのだけれども。
ねぇママ、どうしてみんな結婚するの? 娘が朝、突然そんなことを聞いてくる。うーん、どうしてだろう、分からない。本当に私には、分からなかった。何故結婚するのだろう。何故結婚して子供を産み、育てるのだろう。 結婚しなくてもいいの? 娘が続けて問う。うん、したくなければしなくてもいいんじゃないの? ママはどうして一度結婚したの? あの頃は結婚したかったから結婚したの。どうして結婚したかったの? うーん、どうしてだろう、結婚したくてしたくてしょうがなかったんだよね、あの時は。誰かと一緒に生活したかった。一緒にいたかった。そう思ってた。そうなんだ。じゃぁママは、結婚したかったの、それともパパと一緒にいたかったの、どっち? あまりの鋭い質問に、一瞬返答が遅れる。ねぇどっち? 両方、だな。結婚したいなぁと思ったとき、誰かと一緒にいたいなぁと思ったとき、ちょうどママの目の前にはパパがいた。パパが好きだった。この人となら一緒に老いていけるかな、と思った。だから一緒になったの。ふぅん、それでだめだったんだね。あ、はい、そうです、だめでした。ははは。まぁそういうこともある。ふぅん。 子供の問いは時に、非常に鋭く、残酷なときがある。逃げようがない問いが放られることがある。私は娘の顔を見つめながら、ちょっと苦笑する。説明、しようがないんだよ。その時はそう思ってた。でも、いろんなことがあって別れることになった。永遠に続くものなど、何処にもないんだよ、きっと。私はそう言いかけて、やめた。それは彼女が、自ら体験していけばいいこと。私が今言うことじゃぁない。
玄関を出ると、アメリカン・ブルーが三輪、咲いて私たちを出迎えてくれる。二人して傘を持たず、そのまま走り出す。 さぁ、また一週間が始まる。あいにくの天気だけれど、娘はそんな空の下でも袖なし半ズボンだ。昨日ばばに買ってもらったらしい。かわいい刺繍模様の入った半ズボン。そこから伸びる足は真っ直ぐに伸び、黒く日焼けしている。 じゃ、ね、いってきます、いってらっしゃい。手を振り合い別れるいつもの交差点。娘は左へ。私は右へ。 私はそうして走り出す。私のいつもの場所へ向かって。様々に交差する思いを胸に抱えて。 |
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