見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2009年10月06日(火) 
多分ココアなのだろう、回し車の音が夢の中に途切れ途切れ入り込む。幼い頃から繰り返し見る夢は、線路がぐっと広がっている光景から始まる。私は何故か線路に立っていて、そこから高いホームへ這い上がろうとする。するとわらわらとヒトガタが何処からか現われる。私は逃げる。走っているのに何故かぴょーんぴょーんと蚤のように跳ね上がりながら逃げる。ヒトガタもやはり、ぴょーんぴょーんと飛んで追いかけてくる。山を越え、焼け野が原を越え、それでも追いかけてくる。私は逃げる。山の登り斜面で、私は息を切らし足を止める。振り返ると、ヒトガタの中に父がいるのが分かる。あぁ危ない、そう思ったとき、父の身体を突き抜けるように血が噴出す。
いつもそうだ、いつも。そして私は父を今回も助けることはできず、何処からか響いてきた弟の、逃げろ姉貴という声に押されるようにしてまた逃げ始める。何故かそこに母はいない。
そうやって目を覚ました私の鼓膜に、またココアの回し車の音が響いてくる。這うようにして近づき、その様子を見やる。手足を器用にちょこまかと動かすココア。それと共に回るプラスチックの車。回る回る。カララと回る。ココアが止まればそれも止まる。
窓を開けると一面の雨。降りしきるその雨は隙間なく、辺り一面を埋めている。まるで太い糸のような雨だ。真っ直ぐに降り落ちてくる。風に揺れることもなく、ただ真っ直ぐに。耳を傾けると、アスファルトを叩くその音が、足元から響き上がってくる。

久しぶりに年上の友人と会う。髪の毛を肩の辺りで揺らしながら現われたその人は、肩にかけていた布をふわりと畳み、椅子に座る。ただそれだけの動作なのだが、そこには彼女がしんしんと現われている。やわらかい布、やわらかい動作。遠慮がちな指先。
少し斜めに視線を逸らしながら、話し出す彼女の声は、穏やかで心地よい。でもそれは、彼女がこちらを気遣ってくれているからこそ醸し出される距離感だということを、私は知っている。決してこちらに土足で入り込むことはない、必ずノックをして、今いいかしら、という具合にこちらを覗き込んで、それからにっこり笑って現われる。だから心地よいのだ。とても。
お茶が冷めてゆくのも忘れ、私たちは話をする。言葉は次から次へと溢れてきて、彼女と私の間で転がる。彼女が受け取り、私が受け取り、それぞれに味わいながら、また次の言葉へと移る。そうしているうちにあっという間に時間は過ぎてゆく。
気づけばまた雨が降り出していた。駅前で手を振って別れた後、私は自転車に跨る。朝止めるときに、座席にカバーをかけておいてよかった。すっかり濡れそぼったそのカバーをそっと外し、私はそこに座る。そして勢いよくペダルを漕ぎ始める。
雨は、私の髪を濡らし、頬を濡らす。けれど、決して私を射ることはなく降り続けている。その中を私は縫うように走る。やわらかい雨だった。まるでそれは、彼女がそっと手を翳してくれているかのような、そんな感触の、雨だった。

背中合わせに座っていた娘が、突然言う。ねぇ、私の名前に前の姓って合わないよね。はい? だから、なんか合わないよね。うん、合わないね、とりあえず私は急いで応える。やっぱりそうか、なんかちぐはぐなんだよね。娘が言う。どうしてそう思うの? なんか口の中で言ってみたら、変なんだよね。やっぱり今の姓が私の名前なんだ。そうなんじゃない? あなたの名前はそれだよ。でもねぇ。何? もし前の姓だったら、私は出席番号2番か3番だったんだよね、それだけがちょっとねぇ。あぁ、分かる、ママもね、小さい頃、出席番号が後ろの方でいやだった。なーんだ、そうだったんだ。うん、でもまぁ、いきなり名前呼ばれるより、心構えができてから呼ばれる方がいいかなって思うようになった。特に中学とか高校になるとそう思ったよ。そうなんだー。じゃぁこれでいいんだ。うん、いいんじゃない?
娘は何を思って突然こんなことを言い出したのだろう。それに。覚えていたのか、まだ。昔の姓を。それはちょっとした衝撃だった。もう忘れているかと思っていた。時折思い出して、こんなふうに、口の中で言ってみたりしているのか、娘は。そして、自分の名前はこっちなんだ、と自分に言っていたりするのか。それが、私には衝撃だった。小さな衝撃だけれど、衝撃であることに変わりはない。今、背中合わせでよかった。顔を見られなくてよかった。多分今私は、とっちらかった表情をしているに違いない。

いつもより早めに朝の一仕事を終えた後、娘に頼まれていたビーズのピアスに手をつける。ピアスの穴を開けているわけでも何でもないのに、これを作ってくれ、と、手渡された。パーツが欠けたビーズピアスのセット。ちょっと考えて、私はワイヤーを取り出す。短く切ったそれを丸くし、ビーズを九つ通す。そして最後、一つに二本のワイヤーを通し、留玉で止める。涙型のビーズのピアスのできあがり。
はい。娘に手渡すと、もうできたの?!と驚く声。余ったビーズは工作に使えばいいんじゃない? あー、じゃぁ木工作のカエルに使うよ。ありがとう。へぇ、こんなふうになるんだぁ。娘はピアスを掲げてちらちら揺らしながら見つめている。
いつかこの子がピアスの穴を開ける時が来るんだろうか。私は、そう、自分でマチ針で開けたのだった。耳たぶを氷で冷やし、勢いよく穴を開けた。今私の耳に穴は四つ。つけっぱなしにしているピアスもだから四つ。高校の、一年か二年の頃だった。「ピアスの穴を開けると運命が変わるんだよ」と友達が言い、私はその言葉に惹かれて穴を開けることにした。開ける時、ちくりと痛んだけれど、ただそれだけだった。あっけなく穴は開いた。
それで運命は変わったんだろうか? いや、変わることなんてなかった。最初からそんなこと、分かっていることだったけれども、それでも何となく、がっかりしたものだった。こんなもんか、と思いながら、ピアスをつけていた。時折、かわいらしいピアスをゆらゆらとつけている女性を見ると、羨ましいなと思ったりする。。自分だってピアスの穴があるのに、それでも羨ましいなと思う自分が、ちょっと可笑しくて、私はつい笑ってしまう。
娘が最近よく言う言葉。ママの洋服もママのピアスも全部、私のものでしょ? うん、そうだよ。ママがおばあちゃんになったらあげるよ。そう応えると娘は、にぃっと笑う。やったね、と言って笑う。あなたに似合う服やピアスが私のそれらの中にあるかどうかは分からないけどね、と私は心の中笑いながら言ってみたりしている。でも、何だろう、そんなふうに、私の服やピアスが彼女に受け継がれることは、くすぐったいようなこそばゆいような、心のこの辺がむず痒いような、そんな感じがする。
私はそういえば、母から受け継いだアクセサリーといものをまだ持っていない。服も、スレンダーな母のそれと体格のよい私とでは微妙に合わないから持っていない。いや、持っていなくていい、持ちたくないと思う。多分それは、母の死を意味するだろうから。だから私は、当分母から服もアクセサリーなどもらいたくは、ない。
そう思うと、素直に、嬉しそうな顔をすることができる、娘がちょっと、羨ましい。

雨が降る。雨が降る。しんしんと雨が降る。まるで私を閉じ込めるように雨が降る。だから私は外に出る。出れるうちに少しでも外気を吸っておこうと、外に出る。
バス停もバスの中も駅も、傘の花が咲いて、いつも以上に混みあっている。その合間を抜けて、私は裏通りに出る。小さな橋があって、そこで私はしばし立ち止まる。だくだくと流れる川。濁り澱んでそれでも流れる川。とどまるものは、何処にもない。
そう、とどまることはできない。時間は刻一刻過ぎてゆく。私の時計も娘の時計も、母や父の時計もそうして時を刻んでゆく。昨日も今日も、明日も。誰の上にも平等に時は在り、容赦なく時は在り、逃れさせてはくれない。
私はだから、脳裏に残る夢の残骸を振り払い、歩き出す。今日という日に向かって。歩き出す。今はただ、歩く。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加