2009年11月03日(火) |
一人で目覚める朝はとても静かだ。でも、横に娘の体温がない分、寒い。私は思い切り窓を開ける。冷気がどっと部屋に雪崩れ込む。寒いならいっそどんどん寒くしてしまえ、というような心境。冷気に包まれながら着替えをする。顔もいつもより丹念に洗い、化粧水をはたく。そして日焼け止めと口紅一本。 少し風が強い。ベランダに出ると髪がなびく。髪をなびかせながら、そのまま梳いてゆく。まだ暗い闇の中。夜明けの気配もまだ遠い。 部屋の中、マリリン・モンローが咲いている。それは、仄かな明かりのようで。ぽっとついた蝋燭の炎のようで。あたたかくやさしく見える。今までこの花をそんなふうに見たことはなかった。新しい発見。
散文詩のような写真たちが並ぶ。私の写真にはない色味が、しずかに空間に漂っている。写真たちは、ひそひそと内緒話をしているようで。私はその内緒話にそっと耳を傾ける。傾けるだけでいい。それだけで、写真は多くを語ってくれる。大きな窓から降り注ぐはずの光は見えず、代わりに雨の筋が斜めによぎる。この写真たちにはこんなやわらかな雨が似合うのかもしれない、でも、光燦々と降る中で見たらまたきっと違ってくるのだろう。そんなことを思う。 そこからさらに電車に乗って、国立の書簡集へ。友人が見に来てくれるという。ありがたいこと。友人二人と囲むテーブル。淡々と時間が流れる。その間に雨は降ったりやんだりを繰り返している。昼過ぎの早い午後。
朝からずっと心がざわついている。どうしようもなくざわついている。カウンセリングでは机に突っ伏し、すみません、疲れ果ててます、と話す。本当は。もっと言わなければならないことがあった。でも、私はそれをまだ言葉にできなかった。言葉にしてしまったら、もうそれは明らかなことになってしまって、日の下に晒されることになってしまって、そうなったら私は、暴走しそうだったから。だから、その時まだ言えなかった。 でも。 分かっていたのだ、もう、すでに。その時には分かっていた。私の中に衝動が生まれていることなど、分かりきっていた。またあの衝動がやってきたのだと、分かっていた。
娘から電話が入る。学級閉鎖になったよ、と。急いで実家に連絡し、この数日をどうするかを話す。その間も私の心はざわざわとざわめいている。
加害者が誰かも分かっていて、その加害者が今現在何処に住んでいるかも分かっている時、あなたならどうするんだろう。私は一度、包丁を持ってふらふらとそこへ行ったことがあった。たまたま加害者が留守だったから何ともならなかったが、それでも私はそこへ行ったんだ。できるなら相手を殺し、自分も殺してしまおうと思っていた。でもそれは、実現されずに終わった。 その時と同じ衝動が、私の中に蘇ってくる。湧き上がってくる。殺してやりたい。いや、本当は、殺したって足りない。だからこそ殺してやりたい。 でも今の私には。娘もいて。友人らもいて。両親もいて。もし私がそれを実行してしまったら、どれほどの人たちを哀しませることになるか。特に娘は、どんな思いを味わうことか。その荷物を背負ってこれから長い人生生きていかなければならないなんて、そんな馬鹿なことあるだろうか。渦巻く衝動の向こうに、走馬灯のよう、私の愛する人たちの顔が浮かび流れる。私はただ、あぁ、と頭を抱える。 それでも。殺してやりたい。いや、滅多刺しにしてやりたい。殺してなんかやらない。ただ、滅多刺しにして、私が味わった地獄をあいつにも味合わせてやりたい。それだけ、ただそれだけなんだ。でも。 もしそれを私が為したら。 そう、私が為したら、もっと地獄を見る人たちが増えてゆく。
サミシイサミシイと泣いていたのは、私の心だ。本当は、サミシイなんかじゃない、ムナシイのだ。ムナシイムナシイと泣いていたのだ。あの時。
夕方になる頃、もう我慢ができなくなった。たまたま隣に座った友人が、私と同じ被害者という荷物を背負っている人だったがゆえ、私は吐露してしまった。殺してやりたいんだ、と。でも、と。 加害者なんて、誰だか知らない方がいい。誰が加害者か知ってしまったら、その個人をひたすら追いかけてしまうから。その個人をこそ、殺してやりたいと思ってしまうから。でも。 それを為したら、だめなんだ。すべて、おじゃんになる。これまで私が積み上げてきたもの、すべて、おじゃんになる。そして。 私も加害者になる。今度は私が加害者になってしまう。そんなこと、私は耐えられない。それが一番、耐えられない。
娘よ、どうか、私の心にどーんと居座ってくれ。そして私が衝動に負けそうになったら、その笑顔を私に燦々と降らせてくれ。おまえの笑顔が、私の衝動を唯一、押さえ込める力を持っている。 いつか言ったね、おまえは無限の力を持ってるんだよ、と。その時お前はふぅんと鼻を鳴らしただけだったけれど。本当にそうなんだよ。その力の一つが、このことなんだ。私のこの衝動を押さえ込めるのは、この世の中で、お前の笑顔、だけなんだよ。
久しぶりの朝焼けを、私はじっと見つめる。広がってゆく光の輪。燦々と降る光の環。無限に、今、広がってゆく。
まだ私の中に、衝動は燻っている。ちょっとすると暴れ出しそうな気配がしている。それでも。目を逸らすわけにはいかない。ちょっとでも手綱を緩めるわけにもいかない。ぴんと張り詰めた緊張感が、ずっと私の身体を貫いている。もう正直、体のあちこちがぎしぎし痛い。それでも。 私は決して、同じ位置になど立つものか。奴と同じ加害者という立ち位置になど立つものか。奴と同じにだけは、なりたくないんだ。
どす黒い血が、心の底から沸きあがって来るのを感じる。それも私の一部。どうどうと怒号をうねらせる衝動も、これも私の一部。間違いなく私。私以外の何者でもない。 それなら私はこれらを引き受けていくしかない。引き受けて、生きていくしかない。
赦す、とは、一体どういうことなのだろう。それはきっと、加害者を目の前にした時初めて分かるんだろう。その時私がどういう行動に出るのか。それが結論なんだろう。でも、今それを試みるわけにはいかない。まだ私は衝動をコントロールできてはいないし、私の中で蠢くどす黒い血を癒しきっていない。 いつか。そう、いつか、そういう機会がありえるのなら。その時に。
日は燦々と降り注ぎ。街は休日。私は実家へ向かう。娘に荷物を届けるため。これから数日、娘と離れて生活するのかもしれないから、その荷物を届けるため。 娘よ、離れている間も、私の心から、消えたりしないでおくれ。私をずっと見守っていておくれ。私が暴走なんてしないように。ずっといつも、見守っていておくれ。 荷物が重い。肩に食い込む。それを何度も背負い直しながら、私は歩く。いくらでも食い込めばいい。食い込んだらそれを背負い直して、それでも私は歩くから。 日は燦々と降り注ぎ。穏やかな休日が始まってゆく。街を往く人は強い風に襟を合わせ、俯きながら歩いてゆく。私はその間を、唇噛み締めながら、真っ直ぐに、歩いてゆく。 |
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