見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2009年11月05日(木) 
海の中で目が覚めた。長いこと海に沈んでいるのに苦しくも何もなかった。少し濁った海水の向こうに、たくさんの顔が見えた。あぁみんないる。みんなみんな、あそこにいる。
そう思った瞬間、目が覚めた。私は夢の中で夢を見ていたらしい。何故か頬が濡れていた。私は何を思って頬を濡らしたのだろう。思い出せない。
思い出せないまま、私はベランダに出る。毎日毎日少しずつ確実に冬が近づいてきているのが分かる。でも。あの夢の、海の中はちっとも冷たくも寒くもなかった。むしろあたたかかった。そう、冬の海はあたたかい。ぬくい。そして今私の肌は粟立っている。これが冬の朝。
昨日植え替えたふたつの株を確かめる。暗闇の中作業したわりにはちゃんと植わっている。一安心。プランターはみな湿っている。今日のところは水をやる必要はないようだ。私は玄関に回ってアメリカン・ブルーの鉢を確かめる。やっぱり鋏を入れてやってよかった。萎れていた先がみなぴんと立ち、朝焼けに向かって手を伸ばしている。昨夜の月は美しかった。ヴェールも何もかけていない、まっさらな月だった。そして今朝。東の空は赤く白く燃えている。

友人と連れ立って写真展の会場へ。それぞれにカレーと、彼女はマンデリン、私はフレンチの珈琲を注文する。彼女が写真を見つめてくれる。私はそれをただじっと見つめている。
彼女が先に話してくれた話があった。二人いる娘さんの、下の娘さんが、先日、ライターで腕を焼いてしまったという。傷が在ると安心する。傷がそこに在ると安心する、と彼女は話してくれたのだという。母親の目の前で、腕を焼いた、彼女の気持ちはどんなだったろう。私も友人の前で腕を切り裂いたことがあったっけ。思い出しながら私は彼女の言葉を聴く。娘さんは、こんなことをすればお母さんが哀しむことは分かっているのだけれどとも言っていたという。そうだろう。そんなことは分かっているのだ。それでも止められない時が、在る。
傷が在ると安心する、という気持ちも、私には痛いほど分かる。自分もそうだった。傷が消えかかると、不安に苛まれた。こんなこと赦されないと思った。どうやったって私は逃れられないのだ、逃げちゃいけないのだと思った。この罪を全て自分が背負わなければならないのだと思った。そうして気づけばまた、腕を切り裂いていた。滴る血で、無意識の中、絵を描いていたこともあった。血が止まるとどうしようもない罪悪感に苛まれ、傷をさらに押し広げたり刃を再度当てたりした。何とかして血を止めないで済む方法を探していた。血は止まっていけない、止めちゃいけない、そう思っていた。私はずっと血を流し続けていなければならない存在なのだと思った。そうでなければ存在していることさえ、今ここに在ることさえ赦されない、そんな気がしていた。
そもそも腕を切り裂き始めたのは、何故だったろう。いつだったろう。定かには思い出せない。気づいたら切っていた。自分を傷つけることで、自分を何とか保とうとしていた。自分を何とか赦そうとしていた。自分が存在することを、何もないままでは受け容れられなかった。そして。切るという行為は魔物だった。一度切り始めたら、止まらなくなった。止められなくなった。私の腕は瞬く間に傷だらけになり、皮膚はうねり、でこぼこになった。
一体何年かかったろう。何年の間私は切り続けたろう。分からない。それがようやく止まった。それで戦いは終わりだと思った。でも。
そこからさらに戦いが待っていた。傷を引き受けるという作業が、私を待っていた。

いつか消える程度の傷なら、まだよかったのかもしれない。でも私の傷は、もうどうしようもなく、皮膚が明らかにでこぼこになるほどに積もっていた。何処から見てもそれは、傷以外の何ものでもなかった。
保育園で娘がまず、おまえのママの腕は、と言われた。すぐさま保育士の方がそれに気づいて止めさせてくれたからよかったが、娘は私に訊いた。ママ、いつ怪我したの? どうして怪我したの? 何で怪我したの?
小学生になった娘の周辺で、またそういうことがあった。直接私に尋ねてくる子供になら、私は、昔ね、怪我をしちゃったんだ、と答える。しかし娘は。きっとどう答えてよいか分からなかっただろう。困っただろう。時折私の傷を撫でながら、痛い?と訊いた。
もし、私が独り者で、娘がいなかったら。傷痕をこんなにも引きずらないで済んだのかもしれない。しかし、現実はそうではなかった。私は母親になり、娘がいた。母一人、娘一人の家庭で、しかもその母親の腕はでこぼこの傷だらけで、そんな家庭で何が起こっているのか、気にする人は思った以上にいた。
私の傷はいつのまにか一人歩きしていた。噂が噂を呼び、まわりまわって私の元に戻ってくる。そんなことの繰り返しだった。
私はいい。自分が為したことなのだから、自分が背負えばいいことだ。当然のことだ。傷痕が残ろうと何だろうと、それは、その時期自分が越えるために必要なことだったのだと、自分を納得させることができる。
でも娘はどうだったろう。
何年かぶりに大きなパニックに襲われ、無意識のうちに腕を切ってしまったことがあった。今年の話だったか、去年の話だったか、正直思い出せない。しかし、そういうことがあった。その時、娘は私の傷を見つけ、私を問い質した。私は、ちょっと怪我しちゃった、と最初誤魔化した。しかし、私が親しい友人と話している話を垣間聞いた娘は、怒った。どうして最初から私にそう説明してくれないの、と。そう、解離を起こして無意識のうちに切ってしまっていたということを耳にした時、もう彼女はそれを即座に理解したのだった。そう言ってくれれば私にだって分かったのに、と。
彼女に事実を、ありのままに話すことを、私は何処かで躊躇っていた。でもその時知った。どれほど彼女が私の傷を心に留めてきたのか、を。それを自分なりにどうやって引き受けようかと考えていることを。
傷は。私が一人で為したものだ。しかし。今となってはもう、傷は一人のものではなくなってしまった。私が傷をつければ、娘もそれを背負おうとする。そんなこと私が望んでいなくとも、彼女はそうする。私と共に私の傷を背負おうとする。
そのことが、どうしようもなく伝わってきた。
泣けてきた。情けなくて泣けてきた。自分は一体何を見、何をしてきたのだろう、と。初めて、傷を見て、自分は何をやってるんだ、と思った。
一度身体が、自分を傷つけることを覚えてしまうと、そこから抜け出すことは難しくなる。傷つけることで救われるからだ。一瞬でも救われたい、赦されたい、そう思うから、繰り返してしまう。存在していたいと思うから繰り返してしまう。でもそうしてるうちに、身体はすっかり、自分の意志と関係なく、行為を習慣化させてしまうんだ。
だから、自分がやがて、傷つけるのを止めたい、と思うようになった時、どっと襲ってくる。その習慣化された行為から抜け出すことの苦しさが、どっと襲ってくる。まるで麻薬だ。そう、麻薬と同じだ、自傷行為は。
ねぇママ、痛い? ん? 痛くないよ。…そう、痛みを感じられたら、まだましだ。痛いうちに止めておけば、まだ止まる。でも、痛みがなくなったら、それはもう麻薬になってる。
日記を読み返さなければ、私が切り始めた正確な日時など分からない。しかし、十年くらいの時間はゆうに経っていると思う。
そして今だって、油断できないんだ。自分が意識していない時、ふと手が伸びる。苦しくて苦しくてしんどくて自分を赦せなくなる時、ふと手が伸びる。刃に。そして私は慄く。また手を伸ばしていた自分に。

そういえば。友人が私の刃に、油性ペンで、切るな切るな切るな、というようなことを黙って書いて置いていったことがあった。切ろうとして刃を開いたとき、その文字を初めて私は見た。呆然とした。愕然とした。そして、笑った。笑いながら、泣いた。
友人がどんな思いでそれを書き残していったのか。
それでも。私の行為は、繰り返された。長いこと繰り返された。

穢れた自分の体が赦せなかった。事件が起きてしまった、そのことが赦せなかった。もう自分は、ただでは存在できないのだと思った。自分をいつでも戒め、罰していないといけない気がした。そんな自分に、傷や血は、たまらなく魅力的だった。たまらない安心だった。まるで海の中沈んで何処までも守られているかのような錯覚を覚えた。こうしていればせめて、自分が存在していることは赦される、そんな気がしていた。
でも。
違うんだ。
どうあっても、人はこの世に生まれ堕ちた瞬間からもう、存在していなければならない者になっているんだ。存在する者になっているんだ。
それを、引き受けていかなくちゃ、ならないんだ。どんなにしんどくても。

自分を愛することは、なんて難しいのだろう。自分を抱きしめることはどうしてこんなに難しいんだろう。
それでも。
自分を愛して、抱きしめて、生きていかなくちゃならないんだ。
自分を愛して、抱きしめてくれる人が、本当はこんなにもたくさん、いるのだから。

大きな絶望の前で、小さな希望は木っ端微塵になる。もう消滅してしまったかのように見えさえする。でも。それは消えてなんかないんだ。小さく小さく砕かれても、踏みしだかれても、それでも、存在していることは消えないんだ。

もしかしたら私はまた、血に塗れるかもしれない。腕を切り裂いて血に塗れるかもしれない。
できるならそんなこと、もうあってほしくはないけれども、でももしかしたら、またそういうことがあるかもしれない。それでも。
私は多分、もう生きることからは、逃げないんだろう。生き延びることからは逃げないでいられるだろう。自分を引き受けて、何とか引き受けて、足が折れようと腕が折れようと、それでも這いずって、生きていくんだろう。
今は、そう思う。

あぁ、自分を愛することは、どうしてこんなにも難しいんだろう。自分を抱きしめることは、どうしてこんなにも難しいんだろう。
もしかしたら、生きている間中、私は、愛することを模索し続けていくのかもしれない。探し続け、足掻き続けて、いくのかもしれない。
でもそれもまた、いい。それならそれで、足掻き続けていけばいい。死ぬ瞬間に初めて、あぁこんなことだったか、と、分かり得るのだとしても。それならそれで、足掻いていけばいい。

ねぇママ、痛い? ん? 痛くないよ。どうして痛くないの? 痛いでしょ?
そうだね、傷は痛いんだよね。もし私が意識の中で痛みを感じていなかったとしても、身体は本当は悲鳴を上げていたのかもしれないね。私がその悲鳴に、ちっとも気づいてやれなかっただけで。
そしてその悲鳴の中に、おまえの悲鳴もあったんだね。
今更、そのことに、気づくよ。

冬が来る。やがて冬が来る。でも冬は春を孕んでいる。これでもかというほどに生を孕んでいる。
そのことにもう少し耳を傾けてやれるなら。

いつかきっとまた、花は咲くんだ、と。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加