見つめる日々

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2009年11月06日(金) 
夜通しココアの回し車の音が響いている。からからというその音の中で、私は夢を見る。公園の、あの池に映る自分をじっと見つめる自分。池の中には自分のはずなのに夜叉のような顔が映っている。私は何度も池の水で顔を洗う。洗っては水面に映る自分の顔を見直す。それでもやはり、夜叉は夜叉。消えることはない。私は厭になって水面をばしんと叩く。叩いたその音で、目が覚める。午前三時。
少し迷ったが、そのまま起き上がり、顔を洗う。鏡の中映る自分の顔はあの顔ではなく、やはり自分の顔で。何処でどう間違って私は夜叉になどなったのだろう。分からない。
まだ明けない夜の中、私は昨日の夜届いた友人の写真集をめくる。そこには、五年間の彼の軌跡があった。間違いなくそれは彼の足跡で。時に折れたり時に倒れたりしながらも、ここまで歩いてきた、その彼の姿だった。粗い目の画像は私が彼の画と出会った瞬間受けた印象と変わらずそこに在り。私は彼の軌跡を辿りながら、まるで自分の時間を辿っているような気持ちになった。ここに辿り着くまでに、彼にどんな紆余曲折があったろう。私は知らない。知らないけれど、この一冊の重みが、全てを表してくれているように思えた。大切に大切に、本棚にしまう。
少しずつ明けてゆく空。そう、明けない夜はないのだ。時は残酷なほど正確に流れ続け、止まることはない。止まって欲しいと願おうと何だろうと、お構いなしに刻まれ続ける。
ベランダに出、薔薇をじっと見つめる。水の具合はどうか、挿し木の具合はどうか、新芽の具合はどうか、ひとつずつ見つめてゆく。気になるものが幾つか。でも、それを私は左右することなどできない。自然に生まれ出てきたもの、自然に死に絶えゆくものを、止めることはできない。ただ、そこに在るものを受け容れてゆくのみ。
水をやりながら、お茶を沸かす。先日友人がくれた中国茶だ。私はいまだに香りがあまり分からない。きっととてもいい香りがするのだろうお茶に鼻を近づけてみる。少しだけ、香りが伝わってくる。沸騰する寸前で止め、しばらく置く。そしてお気に入りのカップに入れてみる。冷気に包まれすっかり冷え切った体が、じわじわと温まるのが分かる。一口、また一口、やさしい味のするそのお茶を飲んでみる。一口、また一口、その間に、夜が明けてゆく。

待っていると、友人が髪を肩の辺りで揺らしながらやって来る。すっかり冬の装いなのに、彼女の手にあるのはアイスティー。私はあたたかいカフェオレを飲んでいる。
よくこの店で彼女と待ち合わせする。東京の人ごみが苦手な私を気遣って、彼女はいつもここまで足を運んでくれる。ありがたいことだ。少しずつ少しずつ、でも確実に回復の道を歩み始めた彼女の表情は、最近とても明るい。きぱきぱしていて、見ていて気持ちがいい。今年二度入院をした彼女。それでも、歩みを止めることはない。その入院の最中の彼女の表情を思い出せば、今とどれほど違っているか、至極明らかだ。煙草を持つ指先は震え、唇も小刻みに震え、視線がいつもあらぬ方を漂っていた。ちょっと肩を押したら、そのまま倒れてしまいそうだった。正直に言おう、一年に二度も入院できる彼女の身の上を、私は羨ましく思ったこともあった。でもそれももう、過去のことだ。今、彼女が私の目の前で、笑うその姿があれば、それでいい。
私が無意識のうちに腕を切ってしまうのに対し、彼女は常に意識あって自分を傷つけていたことを話してくれる。彼女の腕や胸元にも傷がある。今は白く、だいぶ薄れてはいるが、その傷をつけてしまったその時、彼女はどんな心持ちだったろう。それを思うと胸が潰れる。
彼女と出会ったのはもう十年は前になる。出会って、知り合って、疎遠になって、再び縁を紡ぎ。今に至る。
彼女は自分の目を、表情がないと時々言う。でも、私から見ると、いつもどんぐりのようにくりくりよく動く目に思える。それが哀しんでいる時もあれば喜んでいる時もあり、怯えている時もあれば安らかな時もある。目と口元に、とても露に気持ちが現われる。
傷つけるしかなかった時があったね。そうだったね。そうして今があるんだよね。うん。そんなことを、つらつらと話す。
別の傷つけ方をするしかない時もあった。彼女は過食、私は過食嘔吐に苦しんだ時期もあった。これもまた、一つの自傷行為だろう。薬の副作用でお互い体型が変わり、それに苛まれ、外出もままならない時期もあった。どんどん堕ちてゆくしかない時期があった。それでも今、私たちはここにこうして在る。
幸せなことだと思う。途中、逝ってしまった友人たちの顔が私の脳裏を過ぎる。彼らは当時のまま、年を取ることなく、そこに在る。一方、生きている私たちは、皺を刻み、年を重ね、ここに在る。なんという大きな違いだろう。

帰り道、自転車で駆けながら、私は歌を歌っていた。朝聞いていた中島みゆきの一人で生まれてきたのだから、という歌を。歌いながら、私は、一人でなど生きていくことはできないことを、痛感していた。一人で生まれ堕ち、一人で死んでゆく、それは間違いないけれど、生まれ堕ちた瞬間からもう、私は誰かとの関わりの中に在った。たとえば父母という存在。祖父母という存在。そして時間が経てば友人という存在。弟という存在。様々な関係の中に私は在った。どんなに落ちぶれて、ひとりぼっちだなんて嘯いても、それは所詮、私の勝手な思い込みだった。どんなに落ちぶれようと何だろうと、私に関わってくれる人がいた。そういう人たちに支えられ、後押しされながら、私は今、在る。
歌いながらだから、彼らにありがとうと私は心で言っていた。歌いながら、私は自分の手の中にある幾つもの緒を、感じていた。もしかしたらその緒の先は、もう切れてなくなっているかもいしれない。それでも私は、多分もう、手放すことはできない。何処までも何処までも持っていくんだろう。その人と関わりあった、そのことの証として。そして十年後、二十年後、もしかしたら戻ってくるかもしれない縁の目印として。
友人が、どんなになっても私はあなたの友達だからね、とにっこり笑って手を振って去ってゆく。私はそんな彼女を、ただじっと見送る。

朝一番の仕事を終えて、次は学校へ。何となく手放し難く、本棚からもう一回、友人の写真集を持ち出して鞄に入れる。これでよし、忘れ物は、ない。
ミルクが顔を上げて、こちらを見ている。ごめんね、今急いでいるから、帰ってきたら遊ぼうね。話しかけながら私は上着を着る。
電話が三回、立て続けに鳴る。一本は友人から、あとの二本は仕事の電話。私はメモをとりながら、出掛ける準備を続ける。
さぁ、時間だ。私は玄関を飛び出す。学校が終わったら、今日は娘に会いにゆく。ケーキでも買っていってやろうか、いや、彼女はシュークリームやドーナツの方がいいのかもしれない、どっちにしよう。私は頭であれこれ考えながら、バスに飛び乗る。
一日はもう始まっている。だから私は駆け出す。私の場所へ。


遠藤みちる HOMEMAIL

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