2009年12月28日(月) |
しっとりとした冷気の中目が覚める。天気予報の言っていた通り、昨夜は雨が降っていたらしい。いつの間にか寝入ってしまったために全く気づかなかった。窓を開け、街景を見やる。濡れたアスファルトが街灯の明かりに照らし出されている。艶やかなその色味。今朝点いている街灯は二つ。しんしんと闇の中沈んでいる。 雨のせいなんだろうか、朝の冷気はいつもよりずっとぬるく感じられる。午前四時半。まだ夜といってもいい時刻。それでも、薄いシャツ一枚でじっと佇んでいられるほど。私は窓を半分開けたままお湯を沸かす。昨日見つけた柚子の紅茶葉をカップに入れお湯を注ぐ。ふんわりと漂う柚子の香り。一口啜り、それから蜂蜜を一匙入れてみる。途端に濃厚になるその味を、私は一口、一口啜りながら、朝の準備を始める。
あの朝焼け、あれはなんて美しかったのだろう。徐々に闇色がぬるみ始め、そうして現れ出た地平線沿いの紅色。沈黙の中で燃え立つ火の鳥のような、そんな色合いだった。それが徐々に徐々に膨らみ、そうして一点、黄金色に燃え上がる炎。炎は徐々に徐々に膨らんで膨らんで、そうして昇ってくる太陽は、轟々と音を立てていた。聴こえない音、でも見える音。その音が林を呑み込み、大地を呑み込み、そしてぱんっという音と共に地平線が弾けた。太陽が生まれ出た瞬間。 私は眼がばらばらになってゆくのも構わず、ただじっと見つめていた。 あの光景は当分忘れられないだろう。新たに日が生まれ出ずる瞬間。その瞬間を讃える歌が浪々と大地に流れていた。雪を被った大地までもが嬉々として歌っていた。あの声を。
窓を半分開けカーテンも開け放したまま、朝の仕事を始める。ミルク、ココア、ゴロたちは静かにまだ眠っている。娘がいないのを多分分かっているのだろう。昨夜私が餌をやった時も、何となく不思議な顔をして、私を見上げていた。ミルクはそれでも籠を噛んで抱いてくれる手を催促していたが、私が手を伸ばすと、匂いを確かめて、ひょいと身をかわした。だから話しかけてやった。30日か31日には帰ってくるからね。それまでちょっと我慢してね、と。 から、からり、と回し車の音がした。あれは多分ゴロだろう。私はタイプを打つ手を止めてしばし耳を澄ます。からり、からからり。まるで機を織るかのような音だ。まだまだ体の小さなゴロの、あの小さな小さな手が思い出される。私は一口また、紅茶を啜る。
気持ちががくんと堕ちたのはいつだったか。はっきり覚えていない。その瞬間、あ、堕ちた、と思った。堕ちた、ということを受け取ってから、どうしたいかを自分に尋ねる間もなく、これはいやだな、と思った。一月は自分が被害を受けた月でもあり、毎年必ず具合が悪くなる。その一月を目の前にして、今気持ちが堕ちたら、救いようがなくなる、そんな気がした。じゃぁ足掻いてみるか。そう思った。 ちょうど娘の留守。私はバスに乗り駅へ向かい、電車に飛び乗る。行き先なんて決めていない。とにかく乗った。手元の手帳のメモを確かめてみる。行きたい美術館の殆どは年末年始の休暇に入ってしまう頃合。じゃぁどうするか。 雪だ。雪を見よう。 電車に揺られ揺られ。とにかく北へ。別に雪がどっさり降っている場所じゃなくていい。そこまで行ったら自分が帰ってこれる自信はない。逆に誘われて、雪の中にどんどん入っていってしまうかもしれない。それじゃぁ足掻きの意味がない。 ちゃんと自分が帰ってくる、帰ってこれる、そんな場所。何処だろう。 そうしているうちに、気づいたら電車を降りていた。歩き出す。知らない街。知らない通り。 でもそこには、空が在った。雲が在った。木々が在った。土が在った。水が傍らを流れ、時折鳥が空を渡った。私はその間を、ただ淡々と歩いた。 大きな石を見つけ、その上に腰を下ろしてみた。そして眼を閉じ、自分に尋ねてみた。内奥に沈んでみた。 眼を閉じ、一番最初に見えたのは、大きなしこりだった。背中から喉を貫くような、しこりだった。私はそのしこりを撫でてみた。いつの間に、こんなに大きなしこりが私の中に刺さっていたんだろう。育っていたんだろう。気がつかなかった、全く気づかなかった。いや、気づこうとしなかったのかもしれない。気づいたらその後始末が大変で、気づかなければ何とかなるかもしれない、そんなふうに思っていたのかもしれない。 だから尋ねてみた。いつ頃からここに居たの? 返事はない。何を食べてこんなに大きくなったの? まだ返事はない。 眼を閉じていると、ありとあらゆる音が耳に雪崩れ込んでくるようだった。草のそよぐ音、空を渡る鳥の声、風に揺れてこすれる木々の枝の音。人の気配は。何処にも、なかった。はるか遠く、彼方だった。 日々、私の気づかぬところで、私の痛みや垢を食べて育ったこのしこりは。私に訴えていた。しんどいんだよ、と。 だから、しんどいんだね、と言ってみた。しんどかったね、と声をかけてみた。そうしたらはらり、一本糸が解れた。 気づいてほしかっただけなんだね。毎日毎日強張って、緊張して、過ごしていた自分のことを。たまには声をかけてほしかっただけだったんだね、たまには止まって、ただ単に呼吸してほしい、と。 そういえばこのところ毎日頭痛だらけだった。喉には何かが絡みつき、背中にはどっしり何かが圧し掛かっている、そんな感じだった。薬を飲んでもそれは解れることはなく、いつまでも何処までも私に憑りついていた。 限界が近かったのかもしれない。そうして私は眼を開ける。どっと私の眼に雪崩れ込んでくる世界。あぁ、世界はこんなにも明るかった。色を持っていた。そのことを改めて思い出す。いつの間にか私はまた、モノクロの世界を歩むところだったのかもしれない。 そうして私は顔を空に向ける。飛行機雲が二つ、真っ青な空に浮かんでいる。きーんと耳に響く鳥の声。世界は一時も、とどまることなく流れ続けている。そんな中漂う私は、今ようやく、久しぶりに深呼吸をする。
今日は病院の日。確かカウンセリングの日だった。そう思いながら手元を動かしていると、友人から知らせが。ようやく本を読めるまでになった、もう電話も大丈夫になった、だから、いつ電話を鳴らしてくれても大丈夫だよ、とそこには記してあった。あぁそうか、よかったねぇ、よかったねぇ、私は思わず声をかける。結局今年彼女との再会は叶わなかったが、また来年がある。来年の春までには、きっと私たちは再会していることだろう。この世界の何処かで。 私が、自分がここで生きて在ることが多分、目印になる。そんなことを、ふと、思う。
バスに揺られながら、私は娘におはようのメールを打つ。今日の朝の散歩では何を見つけた? どんなものに会った? こっちの街の池は今朝も氷が張っていたよ。でも今朝は比較的あたたかいね。ママはこれから病院です。数行のメール。娘はそれをいつ読むだろう。 いつもなら混み合う朝の電車も、今朝はゆるやかで。私はほっくりと窓に身を寄せながら流れゆく街景を見やる。そうして、現れる川は。ちょうど切れた雲間から、漏れてくる陽光に真っ白く輝き。そうしてただ流れゆく。何処までも何処までも。私はそれをただじっと、見つめている。 |
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