2010年01月04日(月) |
夢に気圧されて目を覚ます。それは実に厭な夢で。生活が今より貧しくなってどんどん心が堕ちてぼろぼろになってゆく夢だった。体のあちこちが裂け、孔が開き、零れる血で塗れ、それはもう本当に厭な夢で。だからさっさと手放すことにする。 思い切り冷水で顔を洗い、お湯を沸かす。何を飲もう。私は、今朝はレモンとジンジャーのハーブティを選ぶ。お湯を入れるときに気づく。また手首が痛む。腱鞘炎はまだ治っていなかったらしい。私はモーラステープをまた手首に貼り付ける。 カーテンを開け、街景を眺める。今朝点いている灯りは四つ。闇の中に沈んでいる。一番手前の灯りが突然消える。これから眠りにつくのだろうか。私は消えた灯りの辺りをじっと見つめる。あの家にあの部屋にどうかおかしな夢が訪れませんように。 ハーブティを飲んでいると、早速ミルクが巣から出てきて籠に齧り付く。おはよう、ミルク。私は声をかけ、そっと籠を開けてやる。途端に飛び出してくるミルク。私は慌てて手を伸ばし、彼女を抱き上げる。おまえは本当にすばしっこいねぇ。私は笑いながら彼女に話しかける。そうしている間にも彼女は、私の掌から掌へ乗り移り、腕に上ってきては私のシャツを噛んでいる。だめだよ、噛んじゃ。一応声をかけてみるものの、言っても無駄なんだろうなぁなんて心の中で思う。そんな私にお構いなしに、彼女はひっきりなし、動き回る。 仄かにゆるんできた地平線を私はじっと見つめる。何となくだけれど、今朝の朝焼けは白っぽいような気がする。何故そんな気がするのかは分からないが。私はまだ色の変わらない西の空を見、もう一度東方を見やる。雲が空に散在している。地平線に溜まる雲は多分濃い灰色をしている。いつの間にこんなにいっぱいの雲が現れたのだろう。 街灯が大通りを照らし出している。裸になって、枝も払われた街路樹はしんしんとそこに在り。私はしばし、まだ車も人も通らないその通りを、じっと見つめる。
それはもうどうしようもなかった。すべて吐き出したい。吐き出すならもっと詰め込んでずどんと吐き出したい。その衝動は止められなかった。でも今家にある食料なんてたかが知れている。作り置きのおにぎりやおもち、ブーケレタス、ブロッコリー、あとパンが三枚。私は衝動に抗って、何とかブロッコリーのスープを作ってみる。しかし。 それが呼び水になってしまった。気づいたら、目に映るものを次々口にねじこんでおり。苦しくて苦しくて仕方なかった。苦しさが限界に来て、私はトイレに駆け込んだ。便器に向かって思い切り吐いた。吐いて吐いて吐いて、胃がひっくり返るまで吐いて。 そうしてしゃがみこんだ。何をしてるんだろう、私は。馬鹿みたいだ。つくづく思った。何でこんなことをしなくちゃならないのだろう。何でこんなことになるんだろう。私は自分を呪った。でも呪ったって、吐いたことが帳消しになるわけもなかった。歯の跡がくっきり残った手を、私はごしごしと水で洗い。何度も洗い。何とか机まで戻って椅子に座った。とりあえず今できることは何だろう。私はおのずとお湯を沸かし、ハーブティを入れていた。 でも何故か飲むことができず。飲んだらまた吐いてしまいそうな気がして飲むことができず。私は立ち上る湯気をじっと、見つめていた。
以前から気になっていた展覧会へ、友人と共に出掛ける。美しいモノクロのプリントがびっしりと並ぶ白い壁。湿り気を帯びたモノクロ写真と、乾いた空気に包まれたモノクロ写真とを、私はそれぞれ見つめる。当たり前のことだが、撮り手によって同じモノクロでもこんなにも温度が違う、湿度が違う、風が違う。それにしても、モノトーンのなんと美しいことか。私の写真とは全く異なる。 それにしても。羨ましくなる。今街中で雑踏に向けてシャッターを切っていると、下手をすればフィルムをもぎ取られてしまう。ほんの一瞬の表情を、ごくごく自然な表情を撮りたくてそっとシャッターを切っても、抗議されることもある。これは時代の違いなんだろうか。次々と街中の人を追って切られたのだろうシャッター音が、耳の中、木霊する。
友人が、自分には妄想癖があったんだ、という話をしてくれる。物語を読んでいたりすると、気がつくとその物語の登場人物の一人に自分もなっており。まさに物語に入り込んでしまって、なかなか現実に戻ってこれなくなることが多々あるのだ、と。 一方私は、常に自分を俯瞰している自分がいたことを思い出す。何をしていても、何かをしている自分をもう一人の自分が俯瞰している。そんな構図があった。物語を作るのは好きだったが、それを作っている自分を俯瞰している自分が在た。 そんな話で笑い転げながら午後を過ごす。楽しい時間はきまってあっという間に過ぎるもの。気づけば辺りはすっかり暗くなっており。日はもうとおの昔に落ちた後で。私たちはそのことでもまた笑いながらようやく席を立つ。
何だろう、今日は貧血気味なのだろうか。座っていても何度も何度もくらりと体が揺れるのを感じる。くらりと揺れるだけではない、かくんと全身の力が抜けて、だから何処かで支えないとそのまま床にぺしゃんと座り込みそうで。私は何度も体の位置をずらす。誰かと一緒にいるとき、できるなら自分のそういった具合の悪さは見せたくない。だから何度も腕で体を支える。かくんと落ちてきた頭を体を支える。 帰りの電車の中、念のため、頓服を飲んでおく。
娘に電話をかける。ねぇねぇ、誰から年賀状が届いてる? えぇっとね、あみちゃんでしょ、めいちゃんでしょ、それから、これってなんて読むんだろう、分からないけど、結構たくさん届いてるよ。あ、先生からも届いてる。学童の指導員さんからも届いてる。わぁわぁ、よかったぁ。帰ってきたら、出していない人にお返事書かないとね。うんうん。ね、ママ、生ハムたち、どうしてる? みんな元気だよ。っていうか、ミルクは特に元気すぎて困る。いや、寂しがってるのかなぁ、しょっちゅう籠に齧りついて、遊んでって言ってるよ。早く会いたいなぁ。うんうん、そうだね。
飛び乗ったバスはまだ結構空いており。私は席に座って駅へ向かう。電車に揺られていると、橋へ、川へ。白く煙った陽光を受け、輝き流れる川。流れ込んでくる塵芥をもろとも抱え込んで流れ続けるその様。私はじっと見つめる。空の所々に大きく浮かぶもくもくとした雲。濃い灰色のものもあれば、白っぽく薄い雲も在り。ひとつとしてそこに同じものはなく。 今、車窓を流れる街景は灰白く煙っている。まるで街のあちこちから湯気がたっているかのようだ。動き始めようとしている街。人。空。雲。そして私は。 今私の目の中を鳶が横切る。風を受けて広げられた美しい羽の形。その輪郭線はゆるむこともたわむこともなくまっすぐに伸び。街の奥へ奥へと、それはやがて消えてゆく。 そうして電車は病院の最寄り駅へ辿り着き。私は改札を抜ける。今日もまた、一日が始まろうとしている。 |
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