見つめる日々

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2010年01月05日(火) 
がりがり、がり、がりがり。私は目を覚ます。あの音はミルクだろう。いつものように籠にがっしと齧りついているのだろう。私は体を起こして籠に近づく。おはようミルク。ミルクは、そんなこといいから遊んでくれ、といったふうで、私は苦笑してしまう。今はちょっと無理だから、また後でね。そう声を掛けて、私は窓際に寄る。昨夜雨が降っていたのだろう。アスファルトがしっとりと濡れている。空気も凛と澄んでおり。爪で窓を叩いたら、その音が何処までも何処までも響いていくようだった。西の空には月がかかっており。白く白く、いや、青白く浮かぶ月は、闇の中煌々と輝いている。まだ地平の辺りに残る雲が、ゆったりと動いており。それは永遠に続く帯のよう。
お湯を沸かしながら茶葉を用意する。今朝一番のお茶はレモングラスとペパーミントのハーブティ。とくとくとお湯を注げば、檸檬色の海がカップの中広がる。
カップを右手に持ったまま、ベランダに出る。イフェイオンとムスカリの葉が僅かに雨に濡れている。ホワイトクリスマスの蕾はいまだ開かない。白くぱんぱんに膨らんだ蕾は、そのぱんぱんに膨らんだ姿のまま止まっている。白い花びらには縁から紅い脈が流れ始めている。私は隣のベビーロマンティカの蕾に目を移す。このままだとこちらの方が先に咲くのではないか。そう思えるほどの勢い。濃煉瓦色の蕾は、この闇の中でも真っ直ぐに天を向いている。月光を受け闇の中浮かび上がる。そこだけがまるで色を持っているかのような鮮やかさ。
私は早々に朝の仕事に取り掛かる。いつ失ってもおかしくない仕事。いつ無くなってもおかしくない仕事。だから余計に私は焦る。

病院。診察の日。待合室はがらんとしていて。私はほっとして端っこの椅子に座る。誰もいない待合室はいい。何の気兼ねもいらない。
名前を呼ばれ、診察室に入る。いつもと変わりない診察。その中で唯一、新たに言われることがあった。それは私にとっても気がかりなことのひとつで。でも、今すぐどうこう答える術が無い。時期を見てやってみます、とだけ答える。
重たい扉を押して外に出ると、ようやく息を吸うことができた。全身の力が抜ける。何も考えず、薬を受け取りに薬局へ足を向ける。そこにもまだ誰の姿もなく。淡々と時間が流れてゆく。

フォーカシングの本を貸した友人と会う。早速試みたという彼女。でもまだ深いところにまではいけないと言う。そんな、最初から深みに突っ込む必要はないんじゃないだろうか、と返事をする。徐々に徐々に、試みていけばいいことなんじゃないか。私はそう思っている。せっかくだから、フォーカシングの別の著書も読んでみたいと思うと彼女。少しでも興味を持ってくれて、それが今の彼女の役に立つのなら嬉しい。
スパゲティを食べ、お茶を飲み。そうして時間が過ぎてゆく。地下から出、全面ガラス窓の席に座ると、一気に視界が開けた気がする。空はここからでは小さすぎてよく見えないけれど、それでも陽光を湛えているのは伝わってくる。私たちは小さなカップでお茶を飲みながら、またぼそぼそと言葉を交わす。

家に帰ると私は風呂場に暗幕を垂らす。そうして作業に入る。焼くのは昔のネガから選び出した三点。この頃私は粒子の粗い、コントラストの強い画がほしくてほしくて仕方が無かった。今も多分その基本はあまり変わってはいない。でも。焼けば焼くほど、以前とはもう異なる自分を感じる。今私が立っているこの位置はどんな位置なんだろう。そのことを思いながら必死にプリント作業を続ける。
ネガは楽譜、プリントは演奏。本当にその言葉通りだ。気持ちひとつで音色は変わる。トーンは変わる。現れ出る画はがらりと変わる。
気づけばもう夕飯の時刻は過ぎており。電話のベルに気づいて私は作業の手を止める。

電話は友人からだった。あけましておめでとう、という間も惜しいといったふうに彼女が話し始める。
彼女が訴えてくるものは痛いほど私に伝わってきた。それがどれほど彼女を混乱させたかも手に取るように分かった。でも。
でもだから、敢えて私は彼女に言う。今あなたの直に関わっている人たちをこそ、大切にすべきなのではないのか、と。
それをされて、言われて、どれほど辛かったろう。どれほど痛かったろう。どれほど。でも。
哀しいかな、人は、自分しか見えていない時がある。自分のことしか考えられない頃がある。そうして一方的にボールをこちらにぶつけてくる時が、ある。

私にとっても一月はしんどい。怖い。だから思う。今私の立ち位置は、と。過去でも未来でもない、今の私の立ち位置をこそ、しかと見、掴んでおかないと、私は滑り堕ちてしまうから。あっけなく滑り堕ちてしまうと思うから。
そうして浮かぶ娘の顔。友人との電話を一旦切り、娘に電話を掛ける。
娘が、じじばばに聴こえないように小声で言う。生ハム、どうしてる? 生ハムというのはハムスターたちのこと。ミルクは暴れてるよ、ゴロはおとなしくしてる。ココアはなかなか巣から出てこないよ。私は報告する。ちゃんと巣から出して時々様子見てね。分かった、じゃぁ後で様子見ておくね。うん。じゃ、今漢字の練習してるから、また明日ね。分かった、じゃぁまた明日。
友人にもう一度掛け直すと、ずいぶん落ち着いたらしく。私はほっとする。お互いしんどいよね、しんどいからこそ、しっかり立っていたいよね。声には出さなかったけれども、私は心の中、そう、友人に呟く。

暗室というのはどうしてこうも落ち着くのだろう。私は再び風呂場に戻ると、床にしゃがみこみ、ふと煙草を吸いたくなって火をつける。天井に吸い込まれるようにして立ち上る白い煙も、この部屋では、赤い光を受けて染まっている。私は水洗中のプリントをじっと見つめる。納得できるものは一体いつになったら生まれるのだろう。見つめながら、自分に問い直す。今の私がこのネガから引き出せるものは、何だろう。

ままならぬ朝の仕事を切り上げ、私は自転車に跨る。今日は三つ向こうの駅あたりまで出掛ける。坂を上り、横断歩道を渡り、そして一気に坂を下りようとしたところで私は思い切りブレーキをかける。そして、行くべき道から逸れ、急坂を一気に駆け上がる。
そこは丘の上で。まさに街を一望できる場所で。今、雲の向こうで太陽が轟々と音を立てて燃えているところだった。雲の向こうから伸びる陽光は、これでもか、これでもかというほどに雲を燃え立たせていた。なんという光景なんだろう。私は息を呑む。
地平に漂う雲は、重たげに垂れ下がり。ちょうど太陽の在る位置に滞る雲はもう、陽光に侵食されるが如く燃え上がり。真っ直ぐに四方に伸びてゆく陽光。
私はそうしてもう一度急坂を下り、もとの道筋へ戻る。川を渡るところで再び自転車を止め、しばし川を見やる。所狭しと止まるボートの屋根には、鴎たちがじっと、首を竦めて立っている。みな一様に同じ方向を向いて、吹いてくる風にじっと、耐えている。
何処まで行けば、赦されるのだろう。何処まで走れば、赦されるのだろう。突如、そんな言葉が心に浮かぶ。あぁ私は、もう赦されたいんだ、解放されたいんだ。そのことを、痛いほど感じる。
ペダルを漕ぐ足に力を込める。歩道を走るのがもう面倒になって、私は車道の端を走る。こんなのもう厭だ。こんな状態、私はもう厭なんだ。そのことを、思う。
赦されるなら、何だってする。そう思ったとき、はたと気づく。赦すのは私なんだ。誰より何より私を赦せないのは私自身なんだ、ということ。
そう、私は自分が赦せない。まだ赦すことができない。だから解き放つことができない。涙が出そうになる。一体私は何処まで、自分を赦せないままでゆくのだろう。
それでも生きてる。それでも私はこうして、生きて、在る。

もうひとつ川を渡る。山の向こうが燃えている。まだ時間はある。あの山の上まで上ろう。私は決める。そして急坂をまた上り始める。
まだ残る雨の匂いが、私をくわんと包む。この坂は何処まで。


遠藤みちる HOMEMAIL

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