2010年01月28日(木) |
目を覚ますと、ミルクとゴロがそれぞれに回し車をしながら遊んでいる。ミルクの豪快な音にゴロの軽快な音が重なり合ってまるで合奏のようだ。おはようミルク、おはようゴロ。私はふたりに声を掛ける。ミルクはこちらをちらと見たものの、どうもおなかが空いていたらしい。回し車から降りるとそのまま餌箱の中にどかっと座り、一心にひまわりの種を食べ始める。代わりにゴロが、こちらをちらちらうかがい、抱いて、といった仕草を見せる。私はちょっとだけよと掌に乗せてやる。昨日娘が計量器で体重を量ってみたら、ミルクが38グラム、ココアとゴロが31グラムだった。ミルクが重いのは当然といった感があるが、ココアとゴロが同じ体重だとは思わず、二人して驚いた。今ゴロは私の掌の上、ちまちまと顔を洗っている。 お湯を沸かして中国茶を入れる。大きめのカップを両手で包んで椅子に座る。私が起きるときに起こしてくれと娘が云っていたことを思い出し、彼女に一応声を掛ける。微動だにしない。私はちょっと考え、まだ寝かせておくことにする。後で文句を言われるかもしれないが、まぁそれはそれでいい。まだ早い時刻だ。 中国茶を飲みながら、ずっと同じことを考えている。考えても多分、行き着くところは同じと分かっていて、それでも考えている。
強い人。 それは昔から、私が云われ続けた言葉の一つだ。あなたは強い、あなたは強いから。そう云われ続けた。云われ続けてここまで来た。 強いからそれができるんだ、強いからそれが可能なんだ、強いから。 云う人は、どんな気持ちでその言葉を吐くのだろう。
強いだけの人間など、いない。
私は。 弱いから、弱いことが分かっているから、必死に足掻くだけだ。努力して足掻いて、また努力して足掻いて、それを繰り返しているだけだ。自分には努力して足掻くしか能がないことが分かっているから、なおさら必死に足掻くだけだ。 でも云われることは、努力してるなんてさらさら見えない、ぱっとやれば器用になんでもこなしているようにしか見えない、実際そうやってるじゃないか、といった言葉だった。もう子供の頃から、そう云われ続けた。 何を努力しても、努力を努力と評されたことなんてなかった。そう受け取ってもらえたことなど、本当に数えるほどだった。 でも人は云う。あなたは強い人だね、と。あなたは強いからそうできるんだよね、と。だから私は黙る。黙るしかもう、術がない。 そうせざるを得なかった、それしか選択肢がなかった、それしか! 生き延びるためには、それしかなかった。でも、たとえそうであっても、人は云う、そうできるのはあなたが強いからだ、と。とてもとても強いからだと。そう云われたらもう、黙るしかない。 何度ひとりで泣いただろう。どうして強い強いと云われなければならないんだろう。どうして私はそんな言葉を受け取らなければならないんだろう。どうして、どうして! 私はただ必死に生きているだけだ。みんながそうであるように、私もただ、一瞬一瞬を必死に生きているだけだ。なのにどうして? 何が違う? だから私は、人に「強いね」と云うのが嫌いだ。自分が云われてこれほどに厭な言葉だから、他人に云うのはもっと厭だ。 それでも。それだから。 云われたこと、相手にそう云わせたことは、忘れないでおこうと思う。相手にそう思わせた、そう云わせた自分のことを、忘れないでおこうと思う。覚えておこうと思う。
ぐるりとそう考え巡らし、私は立ち上がり窓を開ける。ぬるい風がぶわんと私を包み込む。今日は雨が降るらしい。天気予報がそんなことを告げている。できるならこんな日は、洗濯物がしたかった。何も考えずにがっと洗えるものを洗って、きれいさっぱりしたかった。そんなことを、空を見上げながら、思う。 テーブルの中央に飾ったベビーロマンティカの、明るい煉瓦色の花びらが窓から吹き込んだ風にぷるりと揺れる。小さな小さな花びら。中心に行くほどに明るい黄色になってゆくその花。滑らかなグラデーションが、私の目の中で揺れる。 ようやっと起きてきた娘は、さすがにばつが悪かったらしく、おはようございます、と言う。私はおはようとそっけなく返す。私の視線から隠れるようにあたふたと支度を始める娘。それがおかしくて、私は少し笑う。 …ママ、あのね、お小遣いが900円貯まったんだけどさ。うん。本、買っていい? いいけど、漫画はこの前買ったからだめだよ。うんうん、分かってる! 何買いたいの? モモかゲド戦記の続き。そかそか。分かった、じゃぁ今度本屋さん行こう。やったー! そうしてお握りをはぐはぐ食べる娘を眺めながら、私はぼんやり考える。娘を産んでからの日々を、ぼんやりと思い巡らす。それはまさにジェットコースターのような日々で。私が一番具合が悪くなったのは、離婚をし、娘と二人暮しを始めてしばらくしてからだった。あれが多分一番、しんどい日々だった。そこを潜り抜けるために、一体どれほどの人たちの手を借りたろう。どれほどの人に迷惑をかけてきただろう。その助けがなかったら、私たちは一体どうなってしまっていただろう。 そこでいなくなっていった人も大勢いる。数えるときりがない。同時に、こうして今も残っていてくれる人たちもまた、在る。 どちらにも感謝しよう。去ってゆくことで私に何かを教えてくれた人たちがいたこと、残ってくれることで私を今も支えてくれるこの貴重な存在のありがたさのこと、どちらにも私は感謝していたい。覚えていたい。決して忘れたく、ない。
今朝は朝練があるらしく、登校班に集まる子供たちは半数ほど。その子供たちを見送り、私は自転車を漕ぎ出す。空模様が気になりはするが、このところ乗っていなかった自転車に乗れることは、心地よい。ぬるい風を切って、私は走る。 公園の池は小さな波を描きながら風に揺れている。その水面に映るのは幾重にも折り重なる灰色の雲と裸の枝々。何処からか飛んできた枯葉が中央に、ぷかりと浮いている。鳩が何処からともなく舞い降りてきて、土をつついて回る。私はそこから逃れるように、そっとその場を離れる。 高架下を潜り、埋立地へ。真っ直ぐに海まで伸びる道をひたすら走る。途中モミジフウの樹を見上げ、健在であることを確かめてから先へ進む。 海は暗い暗い、どす黒い色でもってうねっていた。何処までも何処までもその色は続いているかのようで、私は息を呑む。まるで唸っているかのように見える。何が苦しいんだろう、何がしんどいんだろう、何を吐き出したいのだろう。私はただ、真っ直ぐに立ち、そんな海を見つめることしかできず。強い風が私の髪を煽ってゆく。 |
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