2010年02月11日(木) |
腰の辺りに鈍痛を感じながら起き上がる。でもこのくらいなら何とかなる。体を起こしてから軽く、ゆっくりと腰を回してみる。大丈夫、これなら平気。 窓を開けると、しっとりとした冷気がゆったりと漂っている。夜のうちに雨が降ったらしい。そういえば夕方自転車で買い物に行くとき、ぱらぱらと雨が降っていたっけ。街路樹も街灯もみんな、濡れている。点る灯りまでもが何処か湿気を帯びて見える。静かな静かな朝。寒いといえば寒いけれど、でも、冬にしては暖かいともいえる。そんな大気。 テーブルの上の花たちは、暗闇の中、仄かに点っている。特にオールドローズの白は、闇の中浮き立つかのようだ。それに比してガーベラの赤は落ち着いた色味でもってそこに在る。残念ながら私にその香りはもう分からないけれども、でもきっと、それはとてもいい香り、やさしい香りなのだろうと思う。 それにしても。今朝は何だか変だ。ゴロもミルクもココアも全員が起きて、小屋の中をぐるぐると回っている。ぐるぐるぐるぐる、これでもかというほど駆けずり回っている。以前のミルクの発作を思い出す。まさか三人が三人ともこんな具合になるなんて。私は半ば呆然としながら彼女たちを見つめる。どうしよう、こういうときはどうしたらいいんだろう。その時ミルクが水飲みの管にがしがし噛み付いた。私はそれを見て、水を取り替えてあげるよ、とミルクに声を掛け、とりあえず動作を一度止めさせる。その間に私は彼女の水を取り替え、再び取り付けてやる。すると、きょとんとした顔のまま静止したミルクが、こちらをじっと見ている。その両脇の小屋の中では、ココアとゴロがまだぐるぐる回っている。 とりあえずミルクは止まったようだ。さて、ココアとゴロはどうしたものか。私がまだ術なく見つめていると、ココアが砂浴び場の砂に頭を突っ込む。でーんとひっくり返って砂浴びを始める。そして、止まる。あぁこちらも何とか止まった。じゃぁゴロは? ゴロはまだ落ち着かない様子で、回し車のところと入り口のあたりとを何度も往復している。私が試しに、コンコン、と扉を叩くと、彼女がぴたりと止まる。ようやく気がついたらしい。よし、もう一度。私はコンコン、コンコン、と扉を爪で叩く。彼女の鼻がひくひくと動き、ゆっくりとこちらに向きを変え、向かってくる。よぉし、これで大丈夫。私はほっと息をつく。 ようやくお湯を沸かし始める。今朝は何を飲もう。少し迷って、友人から頂いたハーブティの、最後の一杯を入れることにする。おいしくてたくさん飲んでしまって、あっという間になくなったハーブの茶葉。今度店で見つけたら、買い足そうと決める。 洗い立ての顔に化粧水を叩き込み、日焼け止めを塗る。そして口紅一本。さぁ朝の仕事を始めよう。私は時計を見、起こしてくれと言っていた娘に一声かけてから、仕事に取り掛かる。
友人が来るまでの時間、先週の授業の復習を為す。共依存症からの回復だ。そのプロセスのひとつはたとえば、一瞬間を置く、や、記録をつける、何もおきていない振りをしてしまうのをやめてちゃんと現実を直視する、など。救えない人を救おうとしない、というのも、ある。プロセスとしては十六項目だが、その十六項目について、共依存症者の持つ傾向の詳細も合わせてノートに書き記しておく。また、それがどの障害に当たるかも。 そうやって書き出しながら、改めて見直すと、この十六項目がどれほど有効であるのかが見てとれる。 ここで何か、質問はあるんだろうか。と考えてみるのだが。質問をする余地が、正直、ない。すべて納得できてしまう。納得できてしまう自分が、少々怖い気もするのだが、でも、どうしようもない。 今自分が為すべきなのは、過去にそういうことが在ったことを受け容れること、身近にそういう関係が多々あったことに気づくこと、だ。気づき、受け入れ、そして次に進むこと。過去に飲み込まれることなく、今を新しく生きること。 やってきた友人が、自らの過去にあった、共依存関係について話をしてくれる。今彼女は、その過去の関係が夢に多々出てくるのだそうだ。つい最近もそんな夢を見て、考え込んでしまったのだという。 ノートを間に挟んで、向き合った彼女に、授業で習ったことをできるだけそのまま、私は伝える。そして最後に、今そこに囚われすぎてはいけないことも、伝える。それは彼女の場合特に、過去であって、切り捨ててきた過去であって、今ではない。今の自分をこそ、彼女は大切にすべき。そのことを、伝える。
帰り道、友人に頼まれた材料を買って帰る。足りないものは明日買い足せばいいか、と思い帰宅すると、友人から連絡が。明日だめになったという。 娘にどう伝えようか悩んでいるところに、娘が駆け足で帰宅。さて、と思っている間に、彼女は塾へ出掛けてしまう。 とりあえず、彼女にお弁当は持たせた。今はそれで十分。私は、何となくだるい体を椅子に預け、しばし休憩することに決め込む。正直、あまり物を考えたくない気分。
「あなたはそれを見るのです。そして見ることはその観察に干渉する(それを妨害する)〈私〉という感覚が存在しないときにのみ可能なのです」「あるがままのものとは事実です」「人がなすべきことは何なのでしょう? なすべきことは事実の観察―――いかなる翻訳、解釈、非難、評価もなく観察すること―――ただ観察することだけです」。(クリシュナムルティ著「What are you doing with your life?」より)
このところ私の中に渦巻くものを見つめながら、この言葉を私はひたすら思い浮かべる。そしてまた、過去つきつけられた出来事を、ありありと思い出す。引きずられそうになる。が、それはあくまで過去であって、今ではない、というそのことも、あわせて思い浮かべてみる。 自分の余計な感情、批判、非難、解釈に、引きずられそうになるとき、心はきゅうきゅうと痛む。きりきりと痛む。それなのに、その感情がどんどん増大していって、私は飲み込まれそうになる。 しかしそれにとりつかれると、もうどうしようもなくなる、ということもまた、分かっている。 だから、必死に心に思い浮かべる。ただ事実を見よ、と。何の干渉もなしに、ただ事実だけを見よ、と。 時折、思う。感情というのはなんと恐ろしいものか、と。私を真っ黒にもするし、マグマのようにも、してしまう。
朝の一仕事を終えて、娘に声を掛ける。玄関を飛び出して、二人、自転車に乗る。まだまだ店が開く時間には早いけれども、その前にあちこち散歩しようということになったのだ。私たちはいつも通る道とは違う道を選んで走る。濡れた空気がしっとりと私たちの体を包み込む。 川を渡るところで、私たちはふと自転車を止める。私は流れをただじっと見つめる。隣で娘は今何を思っているのだろう。 突然娘が言う。ねぇママ、嘘はいやだよね。うん? どうしたの? 友達に嘘つかれた気がする。そうなんだ、そうだね、嘘はいやだね。うん、嫌だ。でも嘘をつくにはそれなりの理由があったのかもしれない。ママには分からないけれども。それでもすんごい嫌な気分がする。そうだね、嫌な気分がするね。じゃぁあなたが嘘をつかなければいい。そういうことになるの? うん、そんな気がするよ。自分がされて嫌なら、自分がしなければいい。そっかぁ。そうは言っても、嘘つかざるを得ないときもあるけどね。えー、そんなこと、あるの? うーん、まぁ、あるよ。きっとね。ふぅん。じゃぁもういいや。何が? 嘘つかれてても、もう知らない、いいや。そうなの? なんか、好きにすればいいじゃんって思った、今。そうだね、嘘を問い詰めたって仕方ないことの方が多いよね。ま、いいや! もう忘れる! そうだそうだ、忘れるのが一番いい。 私たちはそう言って笑い、再び自転車に跨る。川は浪々と流れ。ただひたすらに流れ。私たちはそんな川を渡ってゆく。 いつ雨が降り出してもおかしくはない朝。今日もまた、一日が、始まってゆく。 |
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