見つめる日々

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2010年02月22日(月) 
テーブルの上のガーベラ。この花は一体いつまで生きていてくれるんだろう。もう三週間は経とうとしている。それだけこの部屋の温度が低いということなんだろうか。それともこの花が特別長生きしていてくれているのか。花びらをそっと撫でながら、これをくれた人のことを思う。彼女はどんな気持ちでこの花を選んでくれたのだろう。私が贈る側になったら、私は彼女にどんな花を贈るだろう。
昨日のうちに、薔薇のプランターに土を継ぎ足した。今の時代は便利になったもので、古い土を再生させるための土が売っている。それがどれほど役に立ってくれるのか分からないが、試しに使ってみることにした。それを継ぎ足しながら、次々薔薇の病気の新芽を摘んでゆく。どれほど気をつけていても足りないらしい。病葉はすぐに現れる。土を全取替えしなければならないだろうか。今それを悩んでいる。ひとつのプランターの中、ひとつの苗だけが病気、という具合。この樹だけが繰り返し、病葉を出してくる。他はほぼ滅したのだが。どうなんだろう、こういうときもやはり全部取り替えなければならないんだろうか。近いうちに母に尋ねてみよう。
マリリン・モンローの新芽が今一番勢いがいい。次にミミエデン、そしてベビーロマンティカ。パスカリはまぁまぁ、といった具合。赤子の手のような新芽が次々現れている。新芽を見つめていると、不思議と心が落ち着いてくる。しんとするのだ、心が。何故なんだろう。分からないけれども。
お湯を沸かし、茶葉を入れる。今朝も生姜茶を選ぶ。お茶を入れたところで足元を見ると、ゴロがちょうど回し車に乗ろうとしているところで。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女に分かるように、籠をこつこつと指で叩く。ゴロが鼻を引くつかせながら近づいてくる。今日はちょっと天気が怪しいよ。私はそんなことを彼女に向かって言ってみる。空が暗いんだよね、いや、今は闇の中なんだけれども、それでもなんかこう、雲が広がっていて、暗いんだよ。今日はお日様見れないかもしれないね。ゴロは首を傾げるような仕草を見せ、それから再び回し車へ戻ってゆく。

中学生の頃、そのバンドに傾倒した時期があった。レコードをわんさか持っている友人に頼んでテープにダビングしてもらい、それを学校の行き帰り、繰り返し聴いた。体育祭の団体競技にそのバンドの曲が使われたこともあった。そのくらい、当時流行っていた。
友人の誘いを受けて、来日したそのバンドのライブへ出掛ける。正直に言えば、そのバンドの音を生で聴くのは今回が初めてだったりする。長いことレコードの音、テープの音でしか、聴いたことがなかった。
大きな大きなホールは満席で、年配の方が多いかと思いきや、若い人も結構いるじゃないかと驚く。最近彼らの曲でそんなに流行した曲があっただろうかと不思議に思ったのだが、ライブが始まって分かった、若い人たちでも古い曲を当たり前に知っている。もうのっけから大勢の人が立って、体を揺らして聴いている。メンバーが次々音を重ね、紡いでゆく。私はその音が心地よくて、気づけば体をみんなのように揺らして聴いていた。

友人のところに生まれた女の子に、友人が私の娘と同じ名前をつけたという。それを聴いて、私はなんだか複雑な気分になってしまった。友人とは大学時代からのつきあいだ。喧嘩もしたしわいわいがやがや夜通し飲んだりしたこともあった。今も何かと連絡だけは取り合っている。
複雑な気分になったのは、理由なんて簡単なことで、私が遠い昔、彼に恋心を抱いていたことがあったからだ。今はもうお互い別々の道を往く者同士、あれやこれや言い合える仲になったが、そうなるまで長い道程があった気がする。
そんな彼が、よりにもよって、自分の娘にうちの娘と同じ名前をつけるか、と思ったら、なんだか笑えた。ふたりしてこれからは、互いの娘の名前を呼ぶとき、困るんだろうなと思うと、笑えた。漢字も一文字違い。まったくもって、変な縁。
娘に、同じ名前になったって、と話すと、ふぅんと流されてしまう。あれ、気にならないの? と尋ねると、なんで気になるの? 関係ないジャン、と素っ気無く返される。思わず私は噴き出してしまう。そうか、私が気にしすぎなのか、それもそうか、なるほど。同じ名前っていやなもんじゃないの? 別にぃ、そんなの、どうってことない。そういうもん? ママは結構嫌だったけど。なんで? うーん、なんでだろ? 別にいいじゃん、名前が同じっていったって、結局はその人はその人、自分は自分だもん。そ、そりゃ、そうなんだけど。関係ないジャン。そっか…。
娘に完全に負けている気がする。

「表面的な気づきはごく単純なものです―――ドアはそこにあります。しかし、「ドア」という言葉はドアそのものではありません。そして、その言葉の表現から感情的に影響を受けるとき、あなたにはドアが見えません」「言葉はけっしてそれが表す当のものではありません。そういう今も私たちは言葉で表現していますが―――そうしなければなりません―――言葉が表しているものとその言葉は別のものです」「木、鳥、ドアへの表面的な気づきがあり、そしてそれに対する反応―――思考、気分、感情―――があります」「それはひとつの動きであり、外側の気づきと内側の気づきがある、と言うのはまちがっています。心理的な影響を受けずに、木に視覚的に気づくとき、関係のなかに分離はありません。しかし、木に対して心理的な反応があるとき、この反応は条件付けられたもの、すなわち過去の記憶や経験からの反応であり、それが関係のなかに分離をもたらします。この反応によって、関係のなかに、いわゆる〈私〉と〈私でないもの〉が生まれるのです。これが世界との関係におけるあなたのあり方です。これが個人と社会がつくり出されるしくみです。世界は、記憶である〈私〉とのさまざまな関係において見られ、ありのままに見られることはありません。この分離が生活であり、「心理作用」と呼ばれるものの繁茂であり、ここから矛盾と分裂のすべてが起こるのです」「どのような判断もなく、木に気づき、観察できるでしょうか。また、どのような判断もなく、反応や反発を観察できるでしょうか。このように、私たちは木を見、同時に自分自身を見ることによって、分離の原則―――〈私〉と〈私でないもの〉の原則―――を根絶するのです」「事実を見ることのなかには、言葉である〈私〉はありません。どのような事実を見る場合にも〈私〉はありません。〈私〉があるか、それとも見ているかのどちらかです。それらは共存できません。〈私〉とは見ていない状態なのです。〈私〉は見ることができず、気づくことができません」「まず問わなければならないことは、「条件付けられた反応を超えても〈私〉はあるのか」ではなく、「あらゆる感情を宿している心が、過去である条件づけから自由になれるのか」です。過去が〈私〉なのです。現在に〈私〉はありません。心が過去のなかを動き回っているかぎり〈私〉があります。心とはこの過去にほかなりません。心がこの〈私〉なのです」「事実に対する実際の知覚…検証(constatation)」「木があり、木に対する言葉や反応があります。これが監視者、〈私〉であり、過去からきたものです。次に、「この一切の混乱と苦悩から逃れられるだろうか」という問いがあります。もし〈私〉がこの質問をしていれば、それは堂々めぐりになるのです。そこで、それに気づくと〈私〉はもう問わなくなります! そのすべてに気づき、それがわかったので、〈私〉は問うことができません。その罠を見るので、問うことがまったくないのす。さて、この気づきはすべて、表面的なものだということがわかりますか。それは、木を見る時と同じ気づきなのです」「気づきは私たちにその罠の性質を明らかにしました。それゆえ、すべての罠はなくなります―――ですから、今、心は空です。〈私〉や罠が空になっているのです。この心には異質の、異次元の気づきがあります。この気づきは、自分が気づいていることにすら気づきません」「あなたがしなければならないことは、途中で不注意にならずに、ただ終始気づいていることだけです。この、新しい質の気づきは〈注意深さ〉です。そしてこの〈注意深さ〉には、〈私〉によってつくられた限界がありません。この〈注意深さ〉は徳の最高の形であり、それゆえ、それは愛なのです。それは至高の英知ですが、あなたがこれらの人工的な罠の構造と性質とに敏感でなければ、この〈注意深さ〉はありえません」(クリシュナムルティ対話録「自己の変容」より)

じゃぁね、それじゃぁね、手を振り合って別れる。私は玄関の外へ、娘は今日学校が休みなのでお留守番。ちゃんと留守番できるのかちょっと心配だけれど、仕方ない。
以前、恩師から言われた言葉がこのところ頭の中を回っている。当たり前のことができない、そこをクリアできれば。先生はそう言っていたっけ。
それにしても。左手の指三本の腹が痛む。昨日鍋を熱していることを忘れて、取っ手じゃないところをがっしと掴んでしまったのだ。おかげで見事に火傷した。何をするにも煩わしいこの火傷。娘に言われて手袋をしてみたが、手袋で摺れるところが余計に痛い。自分のドジさ加減に、正直呆れてしまう。
電車が川を渡ってゆく。滔々と流れる川は暗く。でも川は止まることなく流れ続け。私は背筋を伸ばす。
さぁ今日もまた、一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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