2010年03月04日(木) |
目を覚ますと予定より三十分も遅い時刻。慌てて起き上がる。でもそういうときに限って、ミルクやゴロも一斉に起きているのだ。がしがしがし、がしがしがし。籠の入り口のところを噛む音がする。噛んでせがんでいるのだ。出して出して、と。あぁもう、どうしようと思いながら、それぞれの頭を撫でてやる。また後でゆっくり撫でてあげるから、それまで待ってね、と声を掛ける。 前髪がやっぱり今日も跳ねている。あっち向き、こっち向き、これでもかというほどあっちこっちに跳ねている。顔を洗うついでに前髪を濡らし、何とか整えてみる。鏡の中の自分の顔がかなり焦っている。いや、これで遅刻するとか何だとかいうわけじゃないのだから、落ち着けばいいのに、起きる時間がちゃんと守れないと、次がうまく転がっていかない気がして。 それでもお湯を沸かしお茶を入れようとするのはやめられず。それがないと朝が始まった気がしない、これもまた習慣か。とりあえず生姜茶を入れる。友人から手紙が届いていた。送った生姜茶が届いた、と。体がぽかぽかしますね、と書いてあったのだが、実は、私はそこまで実感できていない。体が鈍いのかもしれない。つくづくそういう自分の体が嫌になる。が、これもまた自分。香りと味だけでも充分に味わえれば、今のところはそれでよし、としよう。 慌しく支度したおかげか、いつもの半分以下で用意が整う。あぁよかった。ようやくほっとして、窓を開ける。もう窓の外はずいぶん明るくなり始めている。でも何だろう、空には一面薄い雲が張り出しており。明るいのだが、霞んでいる。そんな感じだ。そういえば今日は曇りのち雨と天気予報が告げていたことを思い出す。雨か、でも今日もまた自転車で出掛けたい。どうしよう。傘を持つべきかどうすべきか。迷うところだ。多少の降りなら自転車でもどうってことはないのだが。はてさて。 ベランダのイフェイオンはいつの間にか二輪に増えている。一体何処から花芽を出して来ているのだろう。茂った葉をかき分けないと分からないらしい。花が咲く直前、ひょろりとその花芽は伸び、茂みから一段高いところで花を咲かせる。菫色と水色の間のような色が花びら全身を覆っている。ぱっと花びらを広げるところは、まるで音を立てて割れる風船のようだ。その傍ら、ムスカリはまだ、花芽を持っていない。このまま本当に葉だけで終わってしまうんじゃないかと私は訝っているのだが、どうなるのだろう。 小さなプランター、挿し木したものだけを集めている。少し前から新芽がにょきにょき出始めている。今朝も彼らは無事だ。このまま育ってくれるといいのだが。でもそこで母の言葉が脳裏を過ぎる。薔薇は芽が出ても気を抜けない、根はなかなか出てこないのだから。そう、根付くのに薔薇は本当に時間がかかる。新芽が出てもそのまま立ち枯れてしまうことが多々ある。この子たちもまだまだ、気は抜けない。 カウチソファの上に、娘の脱いだ靴下がそのまま置いてある。全くもう。私はいつもなら洗濯物にそのまま持っていってしまうのだが、今日は置きっぱなしにしておくことにする。自分でやってもらわねば。脱いだものはすぐ洗濯籠へ。それができなきゃ洗濯しないよ、と言ってやろう。
友人たちと待ち合わせて映画館へ。一人の友人が以前から見たいと言っていた映画のひとつだ。この原作者の作品で、以前映画化されたものを見たことがある。時間軸が交叉して描かれた一品だった。でもそのときは、正直、映画より原作の方がいいなと思った。さて今回はどうだろう。 展開の速い映画で、ぐいぐい引き込まれていくのが自分でも分かる。主人公はいるのだが、果たしてその一人物だけを主人公と言っていいんだろうか。私は途中から疑問に思い始める。この映画では、出てくる主要人物すべてが、主人公になり得るんじゃなかろうか。そんな気がしてくるのだ。 そこでふと、前回見た原作者の作品を思い出す。折り重なって、交叉して描かれる時間や人物。そこから浮かび上がってくる像。 青春映画なのかもしれない、でも、極上の恋愛映画でもあるのかもしれない。そんな気がしてきた。 最後の最後、たいへんよくできましたの判子には、涙が出た。それは嫌な涙なんかじゃ決してなく。爽快な、それでいてどこか切ない涙だった。
夕方、遠い西の町に住む友人と話をする。以前話をした折に、フォーカシングのことを私は彼女に話した。友人は早速その関連書籍を読んでくれたようだ。自分の中にはたくさんのフェルトセンスが眠っていた、という。今まで放置して、長いこと放置しておいてしまったものたちに、今改めて声を掛けているところだという。でも、これは、独り言がすんごい多くなるね、という彼女の言葉に私は大笑いしてしまった。確かに、そうなってしまうところがあるかもしれない。最近は、全く動けない日もあるけれど、何とかなる日も増えてきた、という。私はそんな彼女の言葉たちに、耳を傾けている。 今月末、彼女とは或る場所に行くことになっている。何年ぶりの場所だろう、彼女とそこを訪れるのは二度目になる。一度目は、真夜中に集合し、焚き火をしながら朝を待った。その間一体何を話したろう。もうほとんど忘れてしまったが、初対面なのにも関わらず、私たちは一心に言葉を交わし続けたのだった。その間で、炎が風に嬲られながらも燃えていた。その火を絶やさぬよう、私たちは必死で守っていたのだった。 今年も夜にとりあえず集まることにした。そこは間違いなく私たちにとって非日常で。でもだからこそ話せることがきっとあるに違いない。そしてそこに新しいメンバーも加わる。どんな話が飛び出すんだろう。どんな話を分かち合えるだろう。そして、どんな時間を私たちは共有できるだろう。楽しみでならない。
「人は基本的に自分自身に関心がある、そして様々なイデオロギー的、伝統的理由によって、人はそれを間違ったことだと考えるのだと。しかし人がどう考えるかは重要ではありません」 「私たちは皆、何かについて恐れます。抽象的な恐怖というものは存在しません。それはつねに何かとの関係で存在するのです」「恐怖の主要な原因の一つは、私たちがあるがままの自分に向き合おうとしたがらないということにあります」「確実なものから不確実なものへのその運動が、私が恐怖と呼ぶものです」「恐怖はつねに思考の産物です」「私たちが恐れているものは古いものの繰り返しなのです。これまであったものについての思考が、未来への投影を行なっているのです。それゆえ、恐怖の原因は思考です」「あなたが何かにじかに直面するとき、そこに恐怖はありません。恐怖があるのは、思考が入り込んでくるときだけです」「精神が完全に、全体として、今に生きることは可能なのだろうか」 「それがどんなものであれ、他の人たちの理論は重要ではないのです。あなたがその問いかけをしなければならない相手はあなた自身です」「恐怖がそれ自らを様々なかたちで表現する一つの運動だということを理解するとき、そしてその運動は、その運動が向かう対象ではないということを理解するとき、あなたは途方もない問題に直面していることになります。どうやってあなたはそれを、精神がつくり出してきた分裂なしに見ることができるでしょうか?」「一つの全体的な恐怖だけがあります」「私たちは断片化した生を生きています」「私たちは思考の動きがないときにだけ、この全体としての恐怖を見ることができるのです」 「あなたは精神が静まり返っているときだけ見ることができます」 「観察者が恐怖なのです。そしてそれが理解されたとき、もはや恐怖を取り除こうとする努力の中でエネルギーが浪費されることはなくなります。そして観察者と観察されるものとの間の時間的・空間的ギャップは消え去るのです。あなたが自分は恐怖の一部であって、それと分離したものではない―――あなたが恐怖である―――ということを理解するとき、あなたはそれについて何もできません。そのとき、恐怖は完全に終わるのです」。
交流分析とエゴグラムの読み方などを書籍で辿る。実際に自分でもその具体例のエゴグラムを引いてみる。父母像と自己像との関連が実に面白い。反感を持っていながらもそれを引き継いでしまう場合もあれば、それゆえに正反対のグラフを描くものもある。それが何処からきているのかを、うまく掬い取れなければいけないんだろうなと思う。 自分の、十年くらい前の心持での父母像と、今の心持での父母像がずいぶん違っているのを見てちょっと笑えた。父母が変化しているところももちろんある。彼らもずいぶん年をとった。でもそれ以上に、私の見方が変化しているのだろう。彼らの行為に対する私の受け取り方の変化。 そういえば母から電話があった。投身自殺があったため、電車が止まっているのだという。以前なら、そういう電話にさえ私は過敏に反応した。すぐ同一化してしまい、パニックに陥るようなところがあった。でも今は。距離をもって見ることができるようになった。少なくとも、自分と関連して考えることはなくなった。他の人には当たり前にできることが、私にはその頃できていなかった。そういう自分を振り返ると、恥ずかしくなる。でもそれが事実だ。 喋っている自分に薄く透明な膜を張ってみる。決して外界と隔てられているわけではない、けれど、自分の膜をちゃんと持っている、そういうイメージを持ってみること。ちょっともどかしい気がしないわけじゃないのだが、それは多分、私には大切なこと。
娘が隣で踊っている。朝から元気だ。私のPCから流れてくる音楽に合わせて、体を自由自在に動かしている。それが創作ダンスだということは分かっているのだが、よくこうもまぁ次々思い浮かぶものだと思う。 何、ママ? 何って? だってさっきからずっと見てるから。うん、朝から元気だなぁと思って。っていうか、よくそんなダンス思い浮かぶよね。ママ思い浮かばないの? うん、全然浮かばない。そんなふうに体動かすこと思い浮かばない。えー、そんなの損じゃん! え、損なの?! うん、損だよ。そうかなぁ。っていうかさぁ、ママ、もっと頭軟らかくした方がいいんじゃん? えっ? もっとこう、笑えることやるとか。あー、ママの最も苦手な分野だな、それ。人が笑ってくれる方が嬉しくない? いや、確かにそれは嬉しい。でしょ、人が笑ってくれると自分も笑えるしさ、楽しい方がいいじゃん、そもそも。いやまぁ、そうなんだけど、それがうまくいかない人もいるんじゃないの? それがもったいないなぁってことなんだよ。…。ママ、もっとお笑い芸人のテレビ見て、勉強した方がいいよ、でないとじぃじみたいになっちゃうよ! …。
じゃぁね、それじゃぁね、手を振って別れる。坂を下り、公園に立ち寄り、池の端へ。微風が水面を揺らしている。さざなみ立つ水面。映り込む空と枝がそのたびに歪んでゆく。高架下を潜り埋立地へ。目の前を歩いてくる人は本を読んでおり、それは偶然にも自分がかつて読んだことのある本のタイトルで。それだけのこと、一瞬のすれ違いの出来事なのに、それがなんだかちょっと嬉しい。 モミジフウは黒々とした姿で天に向かって立っている。見上げれば空は曇天。昼過ぎには雨になるといっていたが、果たしてどうなんだろう。もう自転車に乗ってきてしまったのだから、どうしようもない。 海は暗緑色を湛えてそこに在り。イヤホンを外して、ただ海の波の音に耳を傾ける。何となく聴いているだけなら似通った音の連なりなのに、耳を欹てればそれは、ひとつひとつ異なる音なのだった。 さぁ今日も一日が始まる。私はまた自転車に跨り、走り出す。 |
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