2010年03月05日(金) |
空が明るい。いや、まだ闇の中なのだが明るい。澄んでいるのだ。昨日の雨で塵芥が洗い流されたのだろうか。すっきりと空気が張っている。そして、なんてあたたかいのだろう。まだこれから何度か寒さがぶり返すのかもしれないが、今日は今日、このあたたかさ、思わず感謝したくなる。イフェイオンが二つ咲いている。それは凛々と鈴の音が響いてきそうなほどはっきりとした様だ。三輪目の花芽がひょいっと茂みから顔を出している。うまくすれば今日中に咲くのかもしれない。ムスカリの葉も、小さな雨粒を乗せたまま佇んでいる。 薔薇の方にまでは雨は吹き込まなかったようだ。土は乾いたまま。よかった。せっかくここまで乾かし気味にしてきたのだ。病気が多少なり治まるまで、この状態を保っていたい。石灰がどこまで効果を発揮してくれるかまだ分からないが、今のところ新芽に粉を噴いている気配はない。今日帰ってきたらまた新芽がぐいと伸びているはず。そのときに見れば明らかになるんだろう。 お湯を沸かし、お茶を入れる。手が勝手に生姜茶を選んで入れていた。そろそろまた、ハーブの葉も買い足しておかなければならないかもしれない。いや、それより先に、昨日友人から聴いた、生姜の蜂蜜漬けが欲しい。お湯で溶いて飲んだら、さぞかしおいしいことだろう。 テーブルの上、空になった花瓶が幾つか並んでいる。お金に余裕があれば花を買って来たいところなのだが、どうだろう。そもそも、最近の花屋には薔薇の花ばかりで、それより他の花があまり見当たらない。薔薇より今は、もっと可憐な花が欲しい、そんな気がする。いや、薔薇を自分で買う、というのが、なんとなく気が引けるのだ。薔薇たちがすでにベランダにいるのに、花を買ってくるというのが申し訳ない、そんな気がして。もし今日時間があったら花屋に一応寄ってはみよう。私は心の中にそうメモする。 昨日洗い立ての髪に枝毛コートを久しぶりにつけてみた。そのおかげか、今朝髪の毛の具合がなんとなく良い。こんなことならさっさと以前からやっておくんだったとちょっと思う。昔はちゃんと私もそういう手入れをしていたのになぁ、いつからやらなくなったんだろう。もう忘れてしまった。そのくらい、時間が空いていた。これからはできるだけ、手入れしてやろうと思う。そのくらい、どうってことはない。 PCを立ち上げると、友人からのメッセージが一番に届く。それを読みながら、昨日のことをぼんやり思い出す。ちょっと痛い。
いつ雨が降りだしてもおかしくない中、自転車で出掛けた。自転車置き場の管理人さんと二言三言言葉を交わし、自転車を止める。念のためにサドルにコンビニ袋をかけておくことにする。 喫茶店で友人を待つ。その間、交流分析とエゴグラムの読み方と行動処方という本を読む。具体例がたくさんでているので助かる。その具体例を読みながら、実際に自分でエゴグラムを描いてみる。繰り返しやっているうちに、だいぶ概要が分かってきた気がする。ただこれを実際の、瞬間的な場面で私がすぐ頭に描くことができるかといえばそれは勿論まだまだで、こうやって神経を研ぎ澄ましていないとそれは到底叶わない。もっと慣れたいと思う。 やってきた友人と映画館へ。 最初、その映画の、ファンタジーな部分が私にはとっつきづらく、さて、どうしようと思っていた。が、気づけばどっぷり映画の中に浸かっていた。自然、涙がほろほろと零れていた。 食、生、母娘。それらのテーマが密に絡み合いながら映画は進んでゆく。そのどれもが、私にはいい意味で痛い。だから涙が零れる。 映画を見ながら、改めて、別の映画のことを思い出している。それもまた食を通じた映画だった。赤い薔薇ソースの伝説、というタイトルだったと思う。あれを見たのは一体いつだったか。もう十年以上前のはず。 映画館を出たときには、私たちは互いに無口だった。それはそうだろう、私たちには感じるものがそれぞれあったに違いない。共に、母親との関係でじぐざぐ歩いてきた者同士なのだから。 少なめの昼食を食べ終えて、私たちはぽつぽつと話し出す。でも何だろう、過去は変えようがないけれども、関係はその時その時、少しずつ変化してゆくもの。今の私たちの、母親との関係は、良好とは言えないまでも、昔と比べたら全く異なる色合いを見せている。そうした変化も含めて、今自分がどれほど向き合えるかなんだろう。受け容れてゆけるかなんだろう。 また、私たちは共に母親だったりする。しかも娘の母親。かつての自分の、母親との関係を、意識せざるを得ない場面にしょっちゅう出くわす。そのたび、自分の中のものを省みることになる。それがまだじくじくと疼いている傷跡であろうと、乾いた傷跡であろうとお構いなしに。そのたび思うのだ、繰り返したくはない、と。その思いがあるから、必死に手探りでやっていくのだ。相対していくのだ、子供たちと。 それにしても、映画の中で、共に暮らしていた豚や鳩を料理して食べるというところがよかった。ああして連綿と続いてゆくのだな、生命というものは、と、改めて思う。命が命を繋ぐのだ。その、とても当たり前なことを、改めて思う。
「何らかの社会に条件づけられて生きている一人の人間が、自分の内面から暴力をすっかり取り除くことは可能かどうか」「全体的な理解を与えてくれるのは、鋭敏さ、注意、真剣さのその性質なのです。人は一瞥で物事全体を見るような目をもっていません。こうしたまなざしの明晰さは、詳細な部分を見て同時にそれを飛び越えることができるときにだけ、可能です」「本当に真剣で、真実とは何か、愛とは何かを見出そうとする熱心さをもつ人は、概念を全くもちません。彼は現実にあるものの中にだけ生きているのです」「完全に、十分に今現在に生きるとは、どんな非難や正当化の感情ももたずにあるがままのもの、現実のものと共に生きることです。そのときあなたはそれを全体として理解するので、それを終わらせてしまえるのです。あなたが明晰に見るとき、問題は解決するのです」
帰宅してしばらくすると、娘が小声で、ココアがいないと言い出す。どうしてと尋ねると、さっきポケットに入れて、そのまま勉強していたらいなくなったのだと話す。私たちはそれぞれに思い思いの場所を探し始める。程なく彼女は見つかったのだが。 私は、ココアを籠に入れて戻ってきた娘の頬を叩いた。 あなたはココアを育てると言って飼ったのだ、生き物を育てるというのはその命に対して責任を持つということだ、この前ココアを脱走させたばかりだというのに同じことを繰り返して、あなたはココアを死なせるつもりなのか? ココアが死んでもいいなら同じことを何度でも繰り返しなさい。でも、そうじゃないならちゃんと命に対しての責任を考えなさい。あなたがしていることは自分の欲求を満たすだけの、無責任な自分勝手な行動なんだ! 気づけば、私はそんなことを彼女に向かって吐いていた。私は激昂していたわけでも何でもない、ひどく冷静だった。でも、今回のことを見過ごすことはできなかった。 ココアは生きている。命だ。それを、自分の欲望欲求だけでかわいがることは、無責任極まりないことだ、私にはそう思えた。かわいいからポケットに入れていた、そんなことは分かっている。好きだから一緒にいたかった、そんなことも分かっている。しかし。 ココアは私たち人間に向かってSOSを出すことの出来ないところで生きている。 娘は、何一つ言い訳しなかった。そしてトイレにしばらく閉じこもった。私も黙って、彼女の次の行動を待った。やがて娘はトイレから出てきて、ココアに近づき、ココアに謝っていた。そして、その後、私に謝りにやって来た。 分かったならいいよ。そう言うと、彼女は大粒の涙を零して泣き出した。私はしばらく彼女の泣くままにさせておいた。
彼女の頬を打ったこの手が痛い。大した力は入っていなかったけれど、そんなことは関係ないのだ、打ってしまったという事実が痛いのだ。 多分これが、二度目の張り手だった。彼女を産んでから今日まで、育ててくる中で、二度目の張り手。 考えてみれば、私は特に父から、拳骨や張り手はしょっちゅう食らっていた。それはとても痛くて、涙が零れるほど痛くて。でも、それが嫌だったわけではない。嫌だったわけではないが、私の中に、暴力はいけない、というような条文がある。むしろ暴力で辛かったのは、恋人から受けたDVだった。あれが私に、暴力だけは、というような思いを抱かせた。自分がされて辛かったから、たまらなかったから、体だけじゃない、心もぼろぼろになったから、もういやだ、というような。 娘にとって今日の張り手はどうだったんだろう。やっぱり痛かったんだろうか。でも、体よりきっと、心が痛んでいるに違いない。心が痛かったに違いない。 暴力を振るったことに、言い訳はいらない。ごめんよ、娘。それがどんな理由であろうと。ごめん。
じゃぁね、それじゃぁね。私は玄関を出る。玄関の外は光の洪水で。思わず手を翳す。なんという光の強さ。 やってきたバスに飛び乗り、駅へ。今日は学校だ。交流分析の、ゲーム分析を授業でやることになっている。その前に質問をいくつかさせてもらおう。分からないことが出てきている。後でメモを作らなければ。 川にさしかかる。川面がきらきらと輝いている。濃緑色の川面が、真っ白になるほどに輝いている。流れ続ける川は、一体何を見ているのだろう。何を思っているのだろう。 さぁ今日も一日が始まる。気持ちを切り替えて、私も今日を踏み出す。 |
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