2010年03月06日(土) |
目を覚ますと、しっとりとした気配。空気が濡れている。窓を開ければしとしとと降る雨。細かな粒が辺りに散っている。でも、さほど寒くはない。春が近いんだなぁと思う。 雨の中、イフェイオンが咲いている。花びらについた雫が重たそうだ。この重たげな空の下、その花の色味がくっきりと浮かんでいる。 薔薇の樹の新芽の幾つかが、やはり粉を噴いている。私は早速それを摘む。一粒も一欠けらも落とさぬよう気をつけながら。この時間でもずいぶん空は明るい。もちろん雨雲は広がっているのだが、それでも明るい。なんだかそれがとても嬉しい。日が長くなるのは当たり前のことといえば当たり前のことなのだけれども、それでも。 お湯を沸かし、生姜茶を入れる。今日はいつもより濃い目に。足元でかさりと音がして私は目を落とす。ゴロだ。巣から出てきたゴロは、前足を上げてこちらを見上げている。おはようゴロ。私は声を掛ける。鼻をひくひくさせて入り口に近寄ってくるゴロ。私はとりあえず肩に乗せる。 あまりにも前髪の癖がひどいので、水でじゃばりと濡らしてみる。こうすれば癖はとれるのだが、なんともまぁ毎朝それをやるのは面倒くさい。これが年を重ねるということのひとつなのだともう分かってはいるが、鏡の中、映る自分を覗き込みながら思う。必要以上に急いで年をとることはないわよ、と言ってみる。それなり、それなりに、年は重ねてゆけばいい。
授業の日。交流パターン分析の復習を軽くした後、授業はゲーム分析へ進む。時間の構造化、といわれてもぴんと来ない。一生という長い時間を、どのように他者とストローク交換して構造化していくのか、そのパターンを知るものだと言われ、ようやく納得する。 ゲーム、と言われて、すぐ思いつくのは、母と娘だった私のやりとりだった。そして省みる。母はこの時、どんな気持ちだったのだろう、本当は、第一次感情と呼ばれるそれは、どんなものだったのだろう、と。 そしてまた気づく。今の私の環境の中で、ゲームをする必要があまりないのだな、ということに。駆け引きをする必要がどこにもないのだ。それがいいのか悪いのか良く分からないが、とりあえず、ない。 ゲーム分析に関しては、まだ実感できないことが多すぎる。もっと他に関連著書を読んで勉強しないと埋まらないかもしれない。
花屋に立ち寄って驚く。ちょっと見ない間に、なんて色とりどりになっているんだろう。花の種類も山ほどだ。あぁここもやっぱり春なんだなぁと思う。あまりの色の洪水に気後れし、買うことが躊躇われる。こういうときはすごすご逃げ帰るのがいい。また今度にしよう。 本屋に立ち寄り、心理学関係の棚を漁る。目的の著書はあまり見つからない。ネットで注文するしかないらしい。ここでも私はすごすご逃げ帰ることにする。 そういえば娘が、欲しい本が一冊あると言っていた。近いうちまた二人で本屋に来よう。何が欲しいのか教えてもらわないと。
ここ最近、娘が、布団を整えるたび、十円頂戴とやって来る。それを貯めて、本を買うんだそうだ。それを見ながら自分の子供の頃のことを思い出す。 うちはお小遣いが労働制だった。たとえば、鰹節を削って十円、靴を磨いて五十円、お風呂掃除をして百円、といった具合。そうやってお小遣いを稼いだ。決まったお小遣いというのは、かなり大きくなってからだった。 娘がどういうつもりで、布団を整えたり掃除をしてみたりしているのか分からないが、自分が欲しいものがあって、それにはお金がかかって、お金というのは働かないと貰うことが出来ない、稼ぐことができない、そのために今自分には何ができるか、と考えてのことなんだろう。 娘がいそいそと布団を整える姿を見ながら、私はかつての自分をそこに見つけている。
「イメージに基づく関係が、その関係の中に和合をもたらすことが決してないのは明白です。なぜならイメージは虚構であり、人は抽象観念の中には生きられないからです。けれども、それが私たち皆がやっていることなのです。観念、理論、シンボルの中に生き、私たちが自分自身と他者についてつくり上げた、現実のものでは全くないイメージの中に生きているのです。私たちの関係すべては、財産に関するものであろうと、思想や人々に関するものであろうと、本質的にこのイメージ形成に基づいているので、だからこそそこにはつねに対立・葛藤があるのです」「生とは関係の中における運動です」「私たちの大部分は社会がもつものをたくさん身につけています。社会が私たちの中につくり上げてきたものと、私たちが自分自身の中につくり出してきたもの、それは貪欲さ、ねたみであり、怒り、憎悪、嫉妬、不安です。そしてこうしたものすべてで、私たちは充満しているのです」「貧しさとは社会から完全に自由であることです」「貧しさは精神が社会から自由になるとき、たとえようもなく美しいものになります。人は内的に貧しくならねばなりません。そのとき、何かを追い求めることも、たずねることも、願望も、何も―――全く何も!―――なくなるからです。葛藤の全くない生の真実を見ることができるのは、この内的な貧しさだけです。そのような生はどんな教会、どんな寺院にも見出すことができない祝福です」 「あなたがありのままの事実としてそれを見るなら―――何か具体的な対象物を見るときのようにしてそれを見るなら―――明晰、直接的に見るなら―――、そのときあなたは葛藤が全く存在しない生の真実とはどういうものであるかを、本質的に理解するでしょう」「別の言い方をしてみましょう。私たちはつねにあるがままの自分をあるべき自分と比較しています。そのあるべき姿とは私たちがこうありたいと願うものの投影です。比較があるときには矛盾・相剋が存在します。何かまたは他の誰かと比較するときだけでなく、機能の自分と比較するときにも、げんにあるものとこれまであったものとの間の葛藤が存在するのです。比較がないときにだけ、あるがままのものが存在します。そしてあるがままのものと共に生きることが、平和でいられるということなのです。そのときあなたは、いかなる歪曲もなしに、あなた自身の中にあるものに―――それが絶望であれ、醜さであれ、残忍さであれ、恐怖、不安であれ、寂しさであれ―――全注意をそそぐことができます。そしてそれと共に完全に生きられるようになるのです。そのときそこには矛盾は何もなく、従って葛藤も存在しないのです」
夜、友人がやって来る。北海道から出てきた友人は、少し憂いを漂わせている。それもそうだろう、友人の大切な祖父が先日亡くなったばかりなのだ。私はできるだけそのことに触れないようにする。友人が話してくれることだけに、耳を傾けることにする。 友人と話していると、自分にとっての写真の位置について、考えずにはいられなくなる。そういえば友人と知り合ったのは写真によってだった。そうして今に至る。友人にとっても私にとっても、写真を撮って焼くことは、自分が生きていくことの、大切な柱になっている。 娘が、その友人の前で、パンツ一丁で踊り狂っている。どうも客人が来てテンションが上がっているらしい。いつも以上にはしゃいでいる。友人も私も、この状態を十年後の彼女に話したら、赤面どころじゃすまないよねぇと笑う。 もう寝るよと言っているのに、娘は友人に齧りついている。布団の取り合いだ。せっかく自分が整えた布団だというのに、もったいないなぁと思いながら、私は笑ってそれを眺めている。しばらくして私が電気を消すと、それと共にことりと寝入った。まさに自由自在。やがて友人の寝息も響き始める。夜中はすぐそこ。
じゃぁね、それじゃあまた日曜日にね。手を振り合って別れる。雨はしとしと降っている。街がどこかけぶっている。この細かな雨粒のせいだろう。徐々に整備されていく埋立地の端っこを歩きながらふと見ると、鴎が一羽。こんな雨の中どうしたんだろうと思う。でもその姿はとても凛として。私は見惚れてしまう。 信号を渡り、友人と約束した場所へ。さぁまた一日が始まる。 |
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