見つめる日々

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2010年03月07日(日) 
腹部の激痛で目が覚める。痛い。とにかく痛い。時計を見ると午前四時。腹部を抑えて痛みから逃れようとするのだが、うまくいかない。何だろうこれは。以前、似通った痛みに襲われたことがある。そのときは熱も四十度を越え、どうしようもなくなって救急車を呼んだ。しばらく布団の中、ばたんばたんと寝返りを打ってみる。一向に良くなりそうにない。仕方ない。痛み止めを飲もう。起き上がり、薬入れに手を伸ばす。一回に一錠が規定量なのだが、この痛みを止めなければどうにもならない。二錠飲んでしまうことにする。再び布団へ。しばらくばったんばったんと暴れていたのだが、暴れているのもこれまたしんどい。目を瞑って数を数えることにする。一、二、三、四…。
一時間ほどして、ようやく多少なり効いてきた薬。私は起き上がる。いつもの起きる時間には間に合った。この程度の痛みなら、動くことはできる。私は顔を洗い、鏡の中を覗き込む。大丈夫、何とかなる。自分に言い聞かせる。実際に声に出して「大丈夫」と言ってみると、ずいぶん違う。おかしなもので、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
お湯を沸かし、マグカップにお茶っ葉を入れてお湯を注ぐ。生姜の匂いが今朝は全く分からない。仕方ない。そんなことでめげてもいられない。私は気を取り直してお茶を口に含む。微かではあるけれども、生姜茶のいつもの味が口の中に広がる。これくらいでも感じられれば上等、上等。私は自分に言い聞かす。
昨日洗って伏せておいたカップを棚にしまっていく。娘と話をしてみると言って帰っていった友人。帰宅して、娘さんとなんらかでも話をすることができただろうか。気にかかる。少しでも話ができていたら、いい。
窓の外は雨。しんしんと降り続く雨。窓を開けて、私は手を伸ばす。雨粒がぽてぽてと手のひらに当たる。少し粒の大きい雨だ。そんな雨を受けてイフェイオンは咲いている。そして、昨日気づいた。ムスカリが小さな小さな花をつけたのだ。本当に小柄な花。それでも咲いたのだ。花を見つけたときは本当に嬉しかった。あぁよかったと思った。そしてムスカリに感謝した。これほど放置しておいたというのに、そんな私の元で再び咲いてくれたことに。感謝した。
腹部の痛みがじわじわと立ち上ってくる。できるだけそれに気をとられぬように気をつけながら、私は朝の支度を続ける。マグカップを持って机の前に座る。朝の仕事に取り掛からないと。私は頭をぶるんと振って、意識を仕事に集中させる。

朝、ノートを整理したりテキストを書いたりしているところに友人がやって来る。友人に、これまで整理したノートを手渡し、少し読んでもらう。ジョハリの窓や、無条件の受容のところで彼女の目が立ち止まり、そのことについてあれこれ話す。また、時間の構造化のところで、自分にはどんな傾向があるかについても少し話す。
友人の話を聴きながら、まだまだ私には勉強が足りないことを痛感する。夕方、ゲーム分析と脚本分析の本が届く。早速読んでみようと思う。

「あなたはドグマから、それを分析することによって、それを閉め出すことによって、いともかんたんに自由になれます。しかし、ドグマからの自由を求めるその動機は、それ自身のリアクションをもっています」「もしもあなたが何かから自由だと言うとしても、それは一つのリアクションで、そのリアクションは別の適応、別の型の支配をもたらすことになる、さらに別種のリアクションを生み出すことになるのです。こうしてあなたはリアクションの連鎖をもつことになり、それぞれのリアクションを自由として受け取るのですが、それは自由ではありません。それは精神が執着する、修正された過去のたんなる継続に過ぎないからです」
「自由はあなたが見て行為するときにだけやってくるので、反抗を通じてではありません。見ることが行為することであり、そのような行為はあなたが危険を前にしたときと同様、即時のものです。そのときそこには思考の働きも、議論も、ためらいもありません。危険それ自体が行動を強いるからで、それゆえ見ることが行動することであり、自由であることなのです」

友人がいきなり言う。こんな話をしてていいのかな?と。どうして、と問うと、人といるときどんな話をしたらいいのか分からなくて。みんな普通はどんな話をしているんだろう? そんなこと気にする必要はないんじゃないの。話したいことを話せばそれでいいと思うよ。聴いてて楽しい? 私は楽しいよ。あぁ、じゃぁよかった。
そうして彼女は再び、いろいろな、思いつくことをあれこれ話してくれる。
彼女は長いこと引きこもっていた。それは、精神的にも肉体的にも、だ。そうしてここに来てようやく、彼女のベクトルが外に向き始めた。だからこそ今、そんな言葉が出てきてしまうのだろう。こんな話していていいのかな、みんなは普通どんなことを話しているんだろう、といったような言葉が。
みんなが普通どういう話をしているのか、私にはよく分からない。だから、自分がこの相手に話したいと思うことを素直に話せば、それでいいんじゃないだろうか、と思う。みんながどうとかこうとか、そんなことははっきりいって関係はない。自分にとって相手がどういう相手であるのかを見極めて、その上で話をすれば、もうそれでいいんじゃないのか、と思う。
ひとしきりそうしておしゃべりをし、私たちは別れる。再会を約束して。

娘に電話をかけると、今お風呂入ってたのにぃと言われる。あらごめんね、掛け直そうか、と言うと、お風呂の中に入って電話に出るからこのままでいいと言う。便利になったものだ。私が子供の頃は黒電話、コードがついているのが当たり前だった。今娘に、黒電話の話をしても、きっとイメージさえ沸かないだろう。
どんな具合? まぁまぁだよ。そっか。ねぇねぇ、生ハムは? みんな元気過ぎて困るよ。さっきミルクを抱いたら、早速セーター噛み噛みされたよ。はっはっは。他愛のない話を交わす。じゃぁまた明日電話するから。うん。じゃ、また明日ね。うん!

昨日届いた二冊の本と、ノートを持って外に出る。雨は降り続いている。冷たい雨だ。昨日の雨とはまた違う。
少し離れた町に住む友人から電話が入る。共依存の話をする。共依存症からの回復のプロセスを説明しながら、自分の自律、相手の自律についてあれこれ話をする。
自分に向き合うという作業は、自分を受け容れてゆくという作業は、どうしてこうも難しいんだろう。でも、それを自分がしなければ、誰が代わりにやってくれるわけでもない。逃げていても始まらない。向き合ってみないと。
怒りについても少し話をする。怒りを出すということの大切さについて。爆発させるのではなく、小出しにしながら、自分なりに客観的にそれを捉えてゆくことの大切さについて。
そうして、今を生きるのは自分だということ、自分自身を生きることができるのは自分だけなのだということについても少し話をする。
自分を大切にする、愛することの大切さ。でもそれは決して、自分に溺れることでは、ない。

窓の外、交叉する雨傘の粒を眺めながら、思う。今私にできることは何か。そういう今をひとつずつひとつずつ、味わってゆこう。自分のこれまで培った尺度にも何にも揺るがない、毎瞬毎瞬新しい自分を、味わってゆこう。
さぁ、今日という日が始まってゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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