2010年03月08日(月) |
いつ寝入ったのか全く覚えていない。目を覚ますと、友人と娘の規則正しい寝息が響いている。しばしその音に耳を傾け、そうして体を起こす。灯りの点いていない部屋の中、他にも物音がしている。かさこそ、かさかさ。ミルクが餌箱の中、でぶんと座って何かを食べている。ゴロはゴロで、水飲み場と入り口のところを往復している。眠っているのはココアだけ。ハムスターは夜行性のはずなのだが、特にゴロは、朝必ず起きてくる。不思議だ。 顔を洗い、鏡の中を覗く。一体自分はいつ寝入ったのか。本を読んでいたのは覚えている。読みながら線を引いたのも覚えている。しかし、友人がお風呂から上がったところは覚えていない。その間に私が寝入ってしまったということなんだろうか。そんなに疲れていたんだろうか、私は。首を傾げる。どうも納得がいかない。 お湯を沸かし、お茶を入れる。それにしても寒い。そう思って窓を見やると、窓はすっかり曇っている。部屋に暖房が入っているわけではない。それなのに曇っているということは、それだけ外が冷えているということ。私は窓をそっと小さめに開けてみる。寒い。ぐんと冷え込んでいる。でもこの凛と張り詰めた空気。私には心地よい。空を見上げると、雲ひとつなく晴れ渡っている。あぁ久しぶりの晴れ間。そんな気がする。街灯の少ない街はまだ闇の中に沈んでいる。が、南東の空はもうすでに明るくなり始めた。地平の辺りにさえ雲がない。昨日の雨雲は何処へ行った。そう思いながらも、心がわくわくしてくるのを私は止められない。晴れるというそのことが、それだけのことなのに、私にはとても嬉しい。雨が嫌いなわけではない。ただ、何となく、心が躍る。 しかし、この数日の雨で、薔薇のうどんこ病はまた拡がった。出てくる新芽のほとんどが粉を噴いている。しかも、それが他にも広がり、すでに在った葉の幾つかまでが粉をつけてしまった。私は、参ったなぁと声に出しながら、それをひとつずつ摘んでゆく。摘めども摘めども、止まない病葉。それでも摘むしかない。飽きずに懲りずに摘むしかない。 ムスカリの小さな小さな花。でも色はとても鮮やかで。青味の強い紫色。緑色の細い葉の間からすっくと立ち上がっている。そしてイフェイオンもまた、茂みの中から頭一つ分顔を出して咲いている。寒さに向かって凛々と。 そっと指の腹で触ってみる。薔薇の新芽。挿し木したものから出てきた新芽は、まさに萌黄色。今生まれたばかりの柔らかさをもってそこに在る。
澱みなく降り続く雨。海と川とが繋がる場所でふと立ち止まる。水墨画のようなけぶる景色の中、そこだけが鮮やかな色あい。鴎たちが集っているのだ。時折鈍い啼き声を響かせ、三羽だけが飛び交っている。水に点々と浮かぶその姿は、白い滑らかな陶器のようで。思わず手を伸ばしたくなる。届くわけはないのだけれど。
朝からひたすら本を読む。チーム医療が出版している交流分析に関する本二冊。ゲームが思い浮かばないと思っていたが、何のことはない、私がゲームそのものを捉えかねていただけのことだった。 代表的なゲームの中の、「はい、でも」などは、私自身何度も演じたことがあるではないかと気づき、苦笑してしまう。そう、以前の主治医との間で、似たゲームを私は何度も演じてきた気がする。はい、でも、でも、でも…。そう繰り返してきた気がする。「あなたをなんとかしてあげたいと思っているだけなんだ」もまた、日常のいろんな場面で出会うものだった。そして、「義足」も、以前は演じたことがある気がする。辛うじてそれらすべてが以前の私にあった側面だが、さぁ果たして、これを過去といえるのか。今だって環境さえ違えば、私は同じことを繰り返しやしないのか。それを思ったら、恥ずかしくなった。 大学で心理学を少し舐めた頃、こんなことは思わなかった。心理学というものを学ぶので手一杯で、学びながら自分を省みるなどという作業はついてこなかった。だから、今改めて私は自分と向き合わなければならないことを思う。学ぶほど、目隠しを取られていく気がする。ひとつ、またひとつ取られて、自分と否応なく向き合わざるを得ない状況に追いやられている。そんな気さえする。 でもそれをしなければ、何のために学んでいるのか分かりやしないというもの。今向き合わないでいつ向き合うのかということもある。今がチャンスなら、そうするだけだ。
実家に電話をすると、娘が半べそで電話に出る。どうしたの? 尋ねてもなかなか応えが返ってこない。電話を変わった父や母が、交互に、状況を話してくる。どうも復習が追いついていっていないらしい。ノートはちゃんととってある、教科書に線も引いてある、じゃぁちゃんと覚えているのかというと、全く暗記はできていない、という状況らしい。書いて終わり、読んで終わり、になってしまっていたのだろう。その中で、私も子供の頃さんざん言われた、父の決め台詞が出てきていた。それを聴いて私は小さく苦笑する。それを言われると、黙るか泣くしか術がないのだ、言われた方は。そのことをありありと思い出す。娘はぼろぼろと大粒の涙を零して泣いたらしい。 結局娘が実家を出たのは午後四時過ぎになった。横浜まで迎えに行こうか、と尋ねると、これまた返事がない。どっちでもいいと言い出す。だから私は敢えて尋ねる。どっちがいい? 三度ほどそのやりとりをして、最後、娘が、やっぱり迎えに来て、と言う。分かった、待ってるね、と私は応える。 雨は降り続いてはいたが、粉のような細かさに変わってきている。でもその粉のような雨は、何処までも何処までも続いていきそうな雰囲気を漂わせており。私は思わず空を見上げる。雨雲は切れることなく、空を覆い尽くしている。
「自由はある精神の状態です―――何かからの自由ではなくて、自由の感覚、あらゆることを疑い問う自由、それゆえ強烈、活動的で、活力にあふれているので、それはあらゆる形態の依存、隷従、適応、受容を投げ捨ててしまうのです。そのような自由は完全に独りaloneであることを含意しています」「この孤独solitudeは、どんな刺激、どんな知識にも依存しない、そしてどんな経験や結論の結果でもない精神の内的な状態です。私たちの大部分は、内的には決して独りではありません。自分自身を〔社会から〕切り離してしまうという意味での孤立isolationと、独り在ることaloneness、孤独は違ったものです」 「独りであるためには、あなたは過去に向かって死ななければなりません。あなたが独りでいるとき、完全に独りで、どんな家族、どんな国家〔民族〕、どんな文化、どんな特定の大陸にも属さないとき、そこに一個のアウトサイダーであるという感覚があるのです。このように完全に独りでいる人は無垢であり、そして精神を悲しみから自由にするのはこの無垢なのです」「私たちは何千年も人々が言い続けてきたことや、過去のあらゆる災厄の記憶といった重荷を引きずっています。それら一切合財を完全に捨ててしまうことが独りになるということであり、独りある精神は無垢であるのみならず、若々しいのです。これは年齢の話ではなくて、いくつになっても若く、無垢で、生き生きしているということなので、そのような精神だけが真理であるもの、言葉では測れないものを見ることができるのです」「この孤独の中であなたは、あなたが考えるあるべき自分や、これまであった自分とではなく、あるがままの自分と共に生きる必要性を理解し始めるでしょう。どんな気おくれも、どんな偽りの謙遜も、どんな恐怖、どんな正当化や非難もなく、自分自身を見られるか試してみなさい―――あるがままの実際の自分と共にただ生きられるかどうかを」「あなたが何かを理解し始めるのは、あなたがそれと共に親密に生きるようになったときだけです。しかし、それに慣れてしまったとたん―――あなた固有の不安やねたみ等々、何であれそれに慣れてしまったとたんに―――あなたはもうそれと共に生きてはいないのです」「非難したり、正当化したりするのではなく、それを気遣うのです。そうしてあなたはそれを愛し始めます。気遣うとき、あなたはそれを愛し始めるのです」「注意深く見る」「自由は願望や欲求、憧憬を通じてやってくるのではなく、自然にやってくるのです。あなたはこれが自由だとあなたが考えるイメージをつくり出すことによって、それを発見するのでもありません。それと出会うには、精神は生を見ることを学ばなければなりません。それは時間の境界をもたない一個の広大な運動です。自由は意識の領域を超えたところに横たわっているからです」
夕方、西の町に住む友人から緊急電話が入る。彼女の声を聴いた途端、何かあったんだなと私は感じる。気づいたら薬を馬鹿飲みしていたのだという。 自分でも分かっている、今は違う、今は今、過去は過去、頭では分かっている。なのに、頭の中で声がするんだ、だめだだめだって声がするんだ。おまえを消去してしまえという声がするんだ、と。そうして気づいたら、薬を飲んでいた、という。 彼女が陥っている場所がどんな場所か、私にも馴染みがある。かつて私もそういう場所に陥って、出てくるのに長い時間がかかった。消去しようとしたって、消去できないことが分かっているのに、存在そのものを滅することなど、できやしないと分かっているのに、それでもしてしまう。死にたいわけではない、そうではないのだけれども、自分を消去しなければもうどうにもならない、と、そう思えてしまうのだ。 私はただ彼女の声に耳を傾ける。その気配を察したのか、娘がこちらを見ている。電話の主が誰かも、多分彼女はもう察知しているのだろう。彼女の目も真っ直ぐだ。 私は、もうそういうことはやめろ、などという言葉を吐くことはできない。もし私がそんなことを声にしたって、嘘になる。私だってさんざんそういう場所を潜ってきたのだ。そういう最中に、やめろと他人に言われたからとてすぐに止められるものではない。そんなことなら苦労もない。 だからただ、今は、SOSを出そうね、とだけ伝える。また同じパターンに自分が捕まってしまいそうになったら、そのときはすぐ、SOSを外に出そうね、と。 あの頃の私には、SOSを出すことさえ遠かった。今の彼女にとってだってそうだろう。それでも、今こうやって電話をかけてきてくれた彼女を、私は信じる。
じゃぁね、それじゃぁね、友人と娘と別れ、私は自転車を走らせる。首を竦めるほど冷たい風が私を突っぱねるように吹いている。でもそれが妙に心地よい。途中公園に立ち寄る。池全体に氷が張っているわけではないが、池の端にちょこちょこと、氷の欠片が見られる。それだけ冷え込んだということか。水面に映る空は青く青く澄んでいる。樹々の枝がくっきりと浮かび上がる。 信号が青に変わった。私は思い切りペダルを踏み込む。高架下を潜り埋立地へ。風は一層強くなり。 銀杏の樹が右に左に小さく揺れている。信号機も揺れている。そんな風吹く街に、陽光はただひたすら降り注ぐ。燦々と。 さぁまた一日が始まる。新しい一日の始まりだ。 |
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