2010年03月09日(火) |
目を覚ます時刻。隣では娘がすぅすぅと寝息を立てている。昨日彼女は私の布団には入ってこず、彼女が友人と一緒に眠った布団を頭から被って寝ていた。頭から被ると友人の匂いがまだ残っているのだそうだ。なるほどと思った。その布団から今は、片足ががばりと出ている。私は布団を掛け直してやる。 もうゴロが起きている。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女はあっちこっち、籠の中を走り回っていたのだが、私の声に反応してぴたりと止まる。そうしてこちらを見上げ、かしかしと前足で扉を叩く。ちょっとだけだよと断って、私は手のひらに彼女を乗せてやる。 窓が今日も曇っている。開けると冷気がぶわりと私の体に当たる。寒い。今日もまた冷え込んでいる。空を見上げるとどんより曇っている。あぁそういえば今日は雨が降ると天気予報が言っていたことを思い出す。その言葉の通り、重だるい雲が空を覆い隠している。雲というのは本当に不思議だ。空全体を覆いながらも、空の明るさを決して損なわないところがある。雲の向こうに青空が広がっていることを、必ず思い出させてくれる。 私の手の中でゴロがぶるりと体を震わす。私は慌てて部屋に戻り、ゴロを籠に戻してやる。籠の中はあたたかいはず。巣の下には温熱シートが敷いてあるのだから。 顔を洗いながら、少し前のあの腹部に走った激痛を思い出す。あれは一体何だったんだろう。ボルタレンを二回使用して、その後は楽になった。痛みが抜けた。一時的なものだったんだろう。それにしたってあんな痛み、久しぶりだった。 お湯を沸かし、お茶を入れる。カップにお湯を注ぐと、ほんわりと生姜の香りが漂ってくる。口に含めば仄かに甘い。私は、生姜ゆえに体があたたまる、というところまでは全く感じられないけれども、それでもこのお茶はおいしい。今飲んでいるのは黒茶生姜茶だが、店には紅茶生姜茶も置いてあった。いずれ機会があったら飲んでみよう。 唇の、ちょっと内側に、何か違和感がある。鏡を覗いてみるのだが、ぽつりと小さな何かがあるようなないような。口内炎のできそこないだろうか? よくは分からない。昨日の夜まではこんなもの感じられなかったのだが。眠っている間に現れたのだろうか。不思議なものだ、人の体というのは。
友人と合流する前に、ひたすら参考文献を整理する。ノートに書き写しながらああでもないこうでもないとやってみる。あなたのせいでこんなになった、や、キック・ミーについて記していて、ふと、弟のことが浮かぶ。弟にも荒れた時期があった。小さいものではあったが、家庭内暴力らしきことがあった。あれは、彼のサインだったんだと思う。そうすることでしか、父親との間でのストローク交換ができなかったんだと思う。今思い返せばそれは或る意味懐かしい。今もう、彼が殴りつけて穴を開けた壁は、実家には残っていない。彼が拳でへこませた私の部屋の扉ももう残ってはいない。でも、そういうことが確かにあった。 基本的構えについてまとめているとき、ふと娘のことが浮かぶ。娘はもうすでに十歳だ。彼女の中でもこの「構え」は出来上がっているといえる。彼女にとっての構えはどんなものだろう。しかも彼女にとって、親は私しかいなかった。私とのふれあいが主体となって培われたその姿勢は、どんなものになってしまっているんだろう。少し不安を覚える。私には全く自信などというものは存在しない。いつだって手探りだ。足掻いている。それがどうか否定的なものではありませんよう、ただ祈るしか、ない。
「私たちは自分の中の変化は時間の中でもたらされると考えます。自分の中の秩序は少しずつ、日を追って形成され、増大すると考えるのです。しかし、時間は秩序も平和ももたらしません。だから私たちは段階〔=時間〕の観点から考えることをやめなければならないのです。このことが意味するのは、私たちが平和に生きるのに、明日というものをあてにすることはできないということです。私たちは今この場で秩序あるものにならなければならないのです」「真の危険があるとき、時間は消えてしまうのではありませんか? そのとき即座の行動があります。しかし私たちは、自分が抱えている多くの問題がもつ危険を見ないのです。だから私たちはそれを克服する手段としての時間を発明するのです。時間は私たちの中に変化をもたらす上で何ら助けにはならないので、人を欺くものです。時間は、人が過去と現在、未来に分割してきた一つの運動ですが、それを分けているかぎり、人はつねに葛藤の中にいることになるでしょう」 「最初に理解されなければならないことは、私たちは時間を、これまで見てきたような新鮮で無垢な精神でのみ、見ることができるということです。私たちは自分たちが抱えている多くの問題について混乱しており、その混乱の中で途方に暮れています。仮に森で迷ったとすれば、最初にすることは何でしょう? 立ち止まることではありませんか? 立ち止まって、周りを見回すのです。しかし私たちが生の中で混乱し、どうしていいかわからなくなればなるほど、私たちはよけいに追いかけ、探し回り、要求し、懇願するのです。だから示唆させていただくなら、なすべき最初のことは、内的に完全に停止することです。そして内的、心理的に止まるなら、あなたの精神は非常に静かに、非常に明澄になるでしょう。そのときあなたは本当にこの時間の問題を見ることができるのです」
友人と合流。友人はもうフィルム二本分撮影してきたという。相変わらずフットワークの軽い友人。私たちは珈琲を挟んであれこれおしゃべりをする。 もう七年くらい前になるだろうか、友人は私たちの今の部屋に一度来たことがある。その時のことを友人は鮮明に記憶しており、私が驚くようなことを次々話してくれる。正直、その頃のことを私はほとんど覚えていない。記憶がない。 記憶がないということがこんなに不安定なものなのかと、改めて思う。立つ場所がないのだ。寄る辺がないといえばいいのだろうか。私は友人の言葉をひとつひとつ噛み締めながら、自分の中に折り畳んでしまいこんでゆく。そういうことがあったのだな、と、自分に言って聞かせる。 今友人は、ひとつの転機に差し掛かっている。ここからどうするか、という場所なのだろう。これまでやってきたこと、そしてこれからやりたいこと、それにともなって向き合わなければならない自分自身。友人の中で渦巻いている。 泥臭さ、という話になる。その人ならではの匂い、徴。それをどれだけ掬い上げて形にできるか。言葉で言うと簡単だが、とても難しい。
「時間とは何か、おわかりですか? 時計によって計られるものでも、年代順の時間でもない、心理的な時間のことです。それは考えることと行動との間にある間隙です。考え〔観念〕は明らかに自己防衛のためにあります。それは安全という観念です。行動はつねに即座です。それには過去も未来もありません。行為することはつねに現在にあります。しかし行動はあまりに危険で不確かなので、私たちは一定の安全を与えてくれるだろうと期待する観念にすがりつくのです」 「時間は観察者と観察されるものとの間のインターバルです」「永続的なものは何もないということを発見するのは途方もなく重要なことです。というのも、そのときだけ精神は自由になり、あなたは見ることができるようになって、そこに大きな喜びがあるからです」「あなたは未知のものを恐れることはできません。なぜなら、あなたは未知のものを知らず、だからそこに恐れるようなものは何もないからです。死はたんなる言葉です。そして恐怖をつくり出すのはその言葉、イメージなのです」
夕方、娘と共に私も机に向かい勉強していると、いきなり娘が尋ねてくる。ねぇママ、どうしてママは勉強してるの? え? 勉強したいからだよ。オトナって勉強しないものなんじゃないの? えー、どうして? だってさぁ、友達のお母さんとかで勉強してる人いないよ。そうなんだぁ、でもママは、今、勉強したいからしてるの。子供のとき勉強しなかったの? えぇっ? いや、そんなことはないけど。私、オトナになってからまで勉強したくないよ。ははは。まぁママもあなたくらいのときは、勉強が好きなわけじゃぁなかった気がする。じゃ、ママはいつから勉強が好きになったの? うーん、それはよく分からない。でも、今は勉強したいからしてて、勉強していろんなことに気がつけるのが楽しいよ。ママってやっぱ変人だ。えぇっ?! ママってB型? な、なんで? 変人だから。いや、違うけど。私、みんなに絶対おまえってB型だって言われる。あ、それは違うな、あなたはAかOだよ。なんで? ママとばばがA型だし、じじとおじちゃんはO型で、B型はいないよ、うちには。えーーー、そうなの?! うん。つまんなーい、じゃ、私、中身だけB型ってことにしよう。な、なんじゃ、それ? 私もヘンジンだもーん。…。
それじゃぁね、じゃぁね、あ、ママ、お弁当作ってね。了解。 そうして私たちは手を振って別れる。娘に言われたとおり、仕方なく傘を持って出たが。自転車に乗れないのがちょっと悔しい。 バスに乗り駅へ。込み合うバスの中、私は少し俯きながら立っている。ふと昨日ノートに書き写した、A的姿勢のことを思い出す。試しに背筋を伸ばし、頭を上げて、あごと床とを平行にしてみる。それで何が変わったというわけでもないが、何となく、地に足が着いているような感覚に陥る。 地に足を着けて…。そう、地に足を着けて歩いていけたらいい。どんなときも、両足だけは踏ん張って、大地に根を張って、歩いていけたらいい。 海と川とが繋がる場所に、水鳥たちが集っている。橋の辺りに大勢の水鳥。黒と白の体の色が、暗緑色の水面に映えて浮かび上がる。彼らは何処から来て、そして何処へゆくのだろう。 信号が青に変わった。強い海風が私の髪を翻して過ぎてゆく。 |
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