見つめる日々

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2010年03月10日(水) 
窓を開け、手を伸ばす。細かい霧のような雨が降っている。空を覆う雲には濃淡の色合いが表れており、その向こうには朝がやってきていることが伝わってくる。ベランダの柵に沿って置いてあったイフェイオンのプランターたちは、すっかり濡れている。雨に濡れた茂みをかき分けてみると、花芽が幾つ。数え出すとわくわくしてくるくらいに出ている。冷たい雨雪だったけれども、イフェイオンにとってはそれはまるで合図だったかのように。ちょっと遅い気もするけれども、でも、こうして咲いてくれることが、私にはとても嬉しい。ムスカリもまた、葉に雫をつけている。でもあの青味がかった花は小さく小さく、それでもちゃんと咲いている。
薔薇の土も濡れている。窓際に寄せておいたのだけれども、昨日の雨雪は、風が強かったからきっと、吹き込んだのだろう。せっかく乾かした土だったのだけれども。まぁこれも仕方がない。新芽をじっと見つめる。粉が噴いているものはいないか、凝視する。二つ、三つ、四つ、見つける。私はただそれを摘む。それしか私にはできない。これ以上拡がらないようにただ目を凝らすくらいしか。
部屋に戻ると、ゴロが回し車を回している。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロはくいっと首をこちらに向け、私を見上げる。ふと思う。彼女の目から見える私は、一体どんな姿をしているのだろう。きっと巨人なんだろうな。怖い顔をしていないだろうか。彼女にとって私や娘が、恐ろしい姿をしていなければいいのだけれども。
顔を洗い、鏡を覗く。ちょっと疲れた顔をしている。昨日は早々に横になった。なんだか疲れていたのだ。日中特別に何かをしたというわけでもなかったのだけれども、何となく疲れた。娘にそう言うと、さっさと布団に入れと促されたっけ。でも、雪の中塾に出掛けていった娘にそんなことを言わせることが、とても申し訳なく、ちょっとどうしていいのか分からなくなったのだった。帰ってきてすぐ彼女の手を握ると、冷たくて冷たくて、氷のようだった。でも不思議だ。握っていたらすぐ、彼女の手はあたたかくなって、私の手よりあたたかくなって。そういうものなのか、と、思ったのだった。
お湯を沸かし、生姜茶を入れる。マグカップを持って机に座り、膝掛けの代わりに毛布を掛ける。暖房を入れればそれで済むのかもしれないが、温風に当たるのがちょっとしんどい。もう使い古した、ぼろぼろになった毛布がこういうときは役に立つ。
先日泊まりに来た友人が言っていた。毎朝決まった時間に仕事を始めるっていいね、と。でないとつい、夜型になってしまうよね、と言っていた。確かにそうだ。私もずっと夜型だった。この、朝早くに仕事を始めるというパターンを作ってから、それが変わった。がらりと変わった。重心が朝になった。娘が今居るせいもあるかもしれない。娘の生活リズムに合わせて、朝ご飯を用意したり弁当を用意したり、と、何かと昼間やらなければならないことがある。朝に重心を持ってくることで、よかったなと思うのは、気持ちの切り替えが早くなったということかもしれない。朝起きる、顔を洗う、お茶を入れる、その間に、昨日あった出来事がすっと過去になる。後ろに飛び去ってゆく。だから私は、新しい一日をその都度呼吸することができる。昨日のことを思い出して日記を毎朝書いているが、一日という時間を過ごしているおかげで、出来事に対して距離ができる。そのおかげなのか、俯瞰できる。距離をもって、その出来事を見やることができる。
鏡に映る顔を覗き込みながら、口紅を引いてみる。さぁ仕事に取り掛かろう。

ゲーム分析と脚本分析の関連著書をあれこれ読んでいる。ゲーム分析はだいぶ掴めて来た。ゲーム分析を勉強していけばしていくほど、ストローク、陽性のストロークの大切さを痛感する。そして思う。私は娘との間で、それをどれだけ出すことができているのか、ということを。また、娘が、それが足りないがために否定的なストロークまでもを欲していやしないか、と。
でも、こういう著書を読めば読むほど、母親というものの重さを思い知らされ、ぐぅっと重圧を感じる。自分はかつて娘だった。そして今母親になっている。私が母との間で一番思い出す言葉は、「おまえさえいなければ私は…!」という言葉だ。この言葉は私にとってどんなものだったろう。それを思うとき胸がぎゅうと痛くなる。でも今ならもう分かる。母なりの思いがあったことを。ただあの当時の私には、選択肢はなかった。おまえさえいなければ、と繰り返す母の元で、それでも母の娘で在り続けるしか、術はなかった。おまえなんか存在しなければいい、存在してはいけない、という言葉に、それは置き換わり、私の中に存在し続けた。私が長いこと、早死にする物語に惹かれていたのは、そのせいなのかもしれないと今なら思う。とっとと死んでしまえ、と思っていた。おまえなんてとっとと死んでしまえ、と。だから私の時間はとっとと切り落とさなければならないものと私は思い込んでいた。そうでなければいけない、と。
そして思う。そういう言葉を、私は娘に向かって吐いていやしないか、と。そのことを思う。正直自信がない。全くない。こんな、責任重大の役柄を、私はしっかりこなしていけるんだろうか。
多分、私は幾つになっても、自信なんてもてないんだろう。自信なんてもてなくて、だから手探りで、懸命に探して探して探して、いくんだろう。
見本なんて何処にもない。私と娘との関係は、もうそれだけで、唯一無二なのだから。

いつのまにか雨が雪に変わる。その中を出掛けていった娘から電話が入る。どうしたのだろうと出てみると、学校のことだった。
学校でちょっといざこざがあったらしい。彼女に悪意があってしたわけでも何でもない出来事。偶発的な出来事。それには何人かが関わっており。でも、吊るし上げを食らったのは彼女だけで。それが彼女には納得がいかないらしい。このままだとまた、明日学校に行くときみんなが門の前で待ってて、睨まれる、と言い出す。そんなことがあるのかと驚いたが、それは言わず、私はただ耳を傾けていた。そして、尋ねてみた。あなたはどう思うの? と。
私はそうされるのは嫌だけど、自分が悪いとは思えない、と言う。それなら自分が信じるようにやってみたらいい、と私は応える。すると、彼女が突然、私、本当の友達なんていないや、と言い出す。そうなの? と私が問いかけると、うん、と言う。Kちゃんでしょ、MちゃんでしょSでしょ…それしかいないや! ええっ、それだけいればもう充分じゃない。本当の友達なんて、そんなにたくさんいるもんじゃないよ。私は応える。そうなの? そうだよ、本当の友達、親友って呼べる友達なんて、そうそう見つかるもんじゃぁないよ、今あなたにはそんなに名前が挙がるほどいるんでしょう? 充分じゃない。そうなんだぁ、そういうもんかぁ。そういうもんだよぉ。
彼女は話が尽きたのか、じゃ、電話切るねと言って電話を切った。私はしばらく受話器を眺めていた。
親友、と、本当に呼べる相手なんて、一人いればいいもんだ、と思う。うわべの友達がたくさんいるより、本当に心を割って話せる相手が一人二人いる、そのことの方が大切だと思う。娘よ、焦るな。ゆっくりいけばいい。納得するまで足掻けばいい。私はちゃんとここに在るから。

「私たちは生を死から分離してきました。そして生と死の間のそのインターバルが恐怖なのです。そのインターバル、時間は、恐怖によってつくり出されます。生は私たちの日々の苦しみ、日々の屈辱、悲しみ、混乱であり、ときたま窓が開いて向こうに魅惑的な海が見えるといったようなものです。それが私たちが生と呼ぶものであり、私たちは死を恐れていますが、それはこのみじめさの終わりなのです。私たちは未知のものに面と向き合うより、既知のものに執着する方を好みます。その既知のものとは私たちは家、私たちの家具、私たちの家族、私たちのキャラクター〔個性〕、私たちの仕事、私たちの知識、私たちの名声、私たちのさびしさ、私たちの神々―――要するに、それ固有の苦しさに満ちた存在の限定されたパターンと共にそれ自身の内部でひっきりなしに動き回る、取るに足りないあのものなのです」「どのように生きるべきか―――喜びと共に、魅惑と共に、美しい日々と共にどう生きるか」「あなたは死ぬことなしに生きることはできません。各瞬間ごとに心理的に死ぬのでなければ、あなたは生きられないのです。これは知的なパラドックスではありません。あたかもそれが新たな魅惑であるかのように、毎日を完全に、全体的に生きるためには、昨日のすべてのものに対する死がなければなりません。さもなければあなたは機械的に生きることになり、そして機械的な精神は決して愛が何であるか、自由が何であるかを知ることができないのです」
「葛藤なしに生きる、美と愛と共に生きる人は、死を恐れません。なぜなら愛することは死ぬことだからです」「あなたが死ぬときに何が起こるかを実際に発見するには、あなたは死ななければなりません。これはジョークではないのです。あなたは死ななければならない―――肉体的にではなく、心理的、内的に、あなたが大事に抱えてきたものに対して、あなたが苦しんでいるものに対して死ななければならないのです。最も小さなものであれ最も大きなものであれ、あなたが自分の快楽の一つに対して自然に、どんな無理強いも理由づけもなく死んだとすれば、そのときあなたは死ぬことが何を意味するかを知ることになるでしょう。死ぬということは、それ自身から完全に空になった、それがもつ日々の願望や快楽、苦悩から空っぽになった精神をもつということです。死は新生であり、一個の突然変異です。その中では思考は全く働きません。なぜなら思考は古いものだからです。死があるとき、何か完全に新しいものがあります。既知のものからの自由は死です。そしてそのとき、あなたは生きているのです」

朝、父に電話をする。用件を伝えると、父がこんなことを言う。「こういうことは、事前にいつでも連絡して来いよ」。
驚いた。父からそんな言葉を受け取るとは、思ってもみなかった。私は電話が切れた後も、しばらく受話器を見つめてしまった。こんなことが起こるなんて。
人との関係というのは、本当に分からない。私の心持が違うせいなのかもしれないが、それにしたって。私たちの今までの関係は何だったんだろうと笑ってしまうほどの驚き。
そんな私を見て、娘が一言。ママ、口が開いてる。いや、口が開いちゃうほどママは今驚いてるんだってば。どうして? うーん、うーん、じじが優しい言葉言ったから。そうなの? うん、そうだね。ママにとっては、とてつもない優しい言葉に聴こえたよ。そうなんだー。じじもそんなこと言うんだー。じじ、雪が降ったんで頭がどうかしちゃったんじゃないの? え?! じじ、熱でも出てるんじゃないの? …。
娘らしい、辛らつなお言葉。はい、そうかもしれませんが。私は笑ってしまった。笑いながら、何となく目尻に涙が滲んだ。

お弁当、そこに置いておいたからね。うん、分かってる。ちゃんと食べるんだよ。うんうん。それじゃぁね、じゃぁねー。
娘の手のひらに乗っていたココアをぐしゃぐしゃと撫でて、私は家を出る。霧のような雨が降ってはいるが、自転車で出掛けてしまおう。雨がざぁざぁ降りだしたら、またその時考えればいい。
坂を一気に駆け下りて、青の信号を渡る。細かな雨粒が私の頬を濡らしてゆく。それでも何だろう、気分がいい。雨の中こうして走るのは、実は結構好きだ。
高架下を潜り埋立地へ。十本の銀杏の樹は、濡れて黒々とした幹を見せている。でもその枝の先には。新芽がふくふくとついている。これが膨らんで、いつか割れる。割れると赤子の手のような萌葉が見られる。
さぁ今日も一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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