2010年03月13日(土) |
四時に目が覚める。しばらく体の声に耳を傾けてみる。何となく胸の辺りがざわざわする。落ち着かない、というか、落ち着かないのともちょっと違うような。何ともいえないざわざわ感。イガイガしているわけではない。ただざわざわする。しばらくそれを眺めていると、ほんのり形が浮かぶ。あぁこれは、昨日授業で書いた童話のせいだ、と思い至る。気にしていないつもりだったのだが、やっぱり何処か、心の奥にひっかかっていたのかもしれない。 窓を開けると、少しぬるい風。強い風。びゅうびゅう吹き付けてくる。イフェイオンがその風に吹かれて揺れている。しゃら、しゃららと、音が聴こえてきそうな気配がする。 部屋に戻ってお湯を沸かそうとして気づく。ゴロが回し車を回している。本当にこの子は、音なくして回る子だなぁと思う。そうして彼女はひとしきり回し車を回し終え、こちらに気づく。おはようゴロ。私は声を掛ける。鼻を上に向け、ひくひくさせてこちらに近づいてくる。私が手に乗せてやると、早々に粗相をしてくれる。 お湯を沸かし、お茶を入れる。今日はほうじ茶。何となくそんな気分。娘の規則正しい寝息を微かに聴きながら、私は椅子に座る。どんどん明るくなってゆく窓の外。今日は高らかに晴れるのだろう。でもこういう時期、何を着たらいいのか本当に分からなくなる。体はまだ冬を残しており。でもそういえば、昨日の授業に来ていた大勢が、だいぶ薄着になっていたっけ。冬のままなのは私だけだったかもしれない。
授業の日。脚本分析について学ぶ。人生脚本という、何度も繰り返していくパターンに、今ここで気づき、書き換えてゆくというもの。禁止令の十二項目が読み上げられ、講師が細かく説明してくれる。それを聴きながら、改めて自分に当てはめてみるのだが、どう少なく見積もっても、九つには確実に丸がついてしまう。そんな自分に少し、苦笑する。 人生や社会に対する基本的構えと、その代表的なエゴグラムを講師がホワイトボードに記してゆく。それを記しながら、先日会って話した友人のエゴグラムが浮かぶ。ちょうどきれいなN型をしていた。ここでいうところの、自己否定、他者肯定のエゴグラムだ。彼女にとってどんなことがどんなものたちが内奥に積もっているのだろう。そんなことをふと考えていると、授業は次へ進んでいる。自分の一番嫌な体験を思い出し、それを童話式に書き換える、という作業だ。 童話式、といわれても、正直何も浮かばない。困っていると、講師が、自分はこんなものを以前書いたことがあると紹介してくれる。あるところに小さな女の子がお手伝いさんと犬と一緒に暮らしていました。或る日犬がいなくなってしまいました。女の子はお手伝いさんに尋ねました。犬は何処へ行ったの? するとお手伝いさんが応えました。犬は遠い街に行ったのよ、でも今とても安心できる場所にいるからあなたは安心してここで暮らしていいのよ、と。そこで女の子はとても安心して、ご飯をおいしく食べました。 と、そんな感じのものだった。講師は母子家庭に育ったのだが、父親が出て行って一週間くらいした頃、母親に尋ねたのだそうだ、お父さんは何処へ行ったの? すると母親は、無碍に、出てったわよ、と言ったのだそうだ。その時少女だった講師は、あぁそう、そうなんだ、別にいいわよ、と反応したのだが、本当は、とても傷ついたのだそうだ。そしてその日から、彼女はお父さんがいないのだからとしっかりしたいい子を演じるようになったという。その、契機になった経験を、この童話で、お父さんを犬、お母さんをお手伝いさんとすることで書き換えた。書き換えることで、講師は、ようやくほっとできたという。お父さんはお父さんで、安心できる場所で生き生きと生きているのだから、私は私で安心してここで生きていていいのだ、と、思えるようになった、と。 さて、私は、一体どう書いたらいいのだろう。ノートを前にして、私は少し迷った。当て所もなく心の中を彷徨った。そうして、とにかく書こうと思って書いてみた。 「昔々あるところに、小さな女の子がおばあちゃんと一緒に暮らしていました。女の子は以前、お父さんとお母さんから、おまえなんかもういらない、と、棄てられたのです。だから女の子はいつも思っていました。私なんてもういらないんだ。その言葉どおり、女の子は、或る日、おばあちゃんの家の屋根から飛び降りました。目を覚ますと、おばあちゃんが言いました。あぁよかった、おまえは私にとってとても大切な子なんだよ、生きていてくれてよかった。女の子はそれを聴いてわんわん泣いて、おばあちゃんと抱き合いました。そうして女の子はおばあちゃんと笑いあいながら一緒にご飯を食べました」。 私にとって、覚えている母の最初の印象は、「おまえさえいなければ私は」というものだ。それは、もう当たり前にそこに在って、だから私はいつでも、いなければいい存在、存在してはいけない存在、というような考えが横たわっている。もうそれは、無条件に私にとって存在する前提、というような。でも。 時折思った。もし私を肯定してくれる人がいたら。私の存在を喜んでくれる人がいたら、私はどれだけ嬉しかっただろう、と。 自分が最初に自殺未遂した折、数日後目を覚ましたとき、最初に響いたのは母の、一体どういうつもりでこんなことするの、迷惑よ、という言葉だった。そこで私は、その言葉をそのまま鵜呑みにしてしまった。その結果私は、生き残ることをさせられてしまった、というような姿勢を持つことになった。 それらのことを、書き換えるなら。書き換えられるなら、こんな言葉が欲しかったな、と。そう思って、書いてみた。 書いて気づく。あぁこれはインナーチャイルドセラピーワークとほぼ同じことなんだな、と。至極重なり合うものがある。こうやって書き換えてゆくことで、過去の重大な出来事を、受け容れ、重大な凹みだったものをささやかなものに変えてゆく。そのような作業。書き換えて、さて。次は。私がその、自分が理想とした形を生きてゆくことなのだと提示される。はてさて。そんなことできるんだろうか、と思う。これまで強烈にそこに在ったものを、変えてゆけるんだろうか。 でも。今気づけたのだから、今書き換えることができるチャンスなのだから、それをしていくことが大切なのだろう。書き換えはいつだってできる。今がチャンスなら、今それを為せばいいのだ。
娘が電話口で、さっき私すんごい怒ったの、と言い出す。どうしたの? と尋ねると、後で話すね、と言う。何があったんだろうなぁと彼女の帰宅を待っていると、けろっとした顔をして帰って来る。何あったの? 私が尋ねてみると、え? 何? と言う。え、だってさっき、すごく怒ったの、って言ってたでしょう? え? 言ったっけ? 忘れた。と言う。それどころか、お弁当の残りを食べながら、漫画を読んで笑っている。 何があったんだろうなぁと思うのだが、彼女にとってすっと忘れられるくらいのことだったのかもしれないとも思う。こういうとき、本当はどうするべきなんだろうとも思う。彼女の話を引っ張り出して、聴くことが大切なのか、それともそっとしておくことが大切なのか。結局私は、無理に話を聴いても逆効果なのかもしれないと、彼女が為すままにしておく。もしかしたらこれも、彼女なりの解決方法なのかもしれない、とも思ったりする。気にしすぎといえば気にしすぎなのかもしれないが。 私がうだうだ考えているところに、娘が突如話し出す。ねぇママ、ママは再婚しないの? へ? 再婚だよ、しないの? うーん、そりゃ相手がいればするかもしれないけど、今のところ相手いないからしない。つまんないのー。えぇっ、つまんないわけ? かっこいいお父さんがいいなー、あのドラマのお父さんとか。あー、無理だね、無理。じゃ、いっぱい遊んでくれるお父さんとか? そういう人がいたらいいんだけどなぁ。誰かいない? 紹介してよ。えー、私、言っとくけど、自分だけで手いっぱいだから。あ…そ。
「愛は完全な自己放棄があるときにだけ出現する」「探し求めている精神は情熱的な精神ではありません。そして愛を探し求めることなく愛と出会うことが、それを見出す唯一の方法です。知らないうちにそれと出会うので、それは何らかの努力や経験の結果ではありません。あなたが見出すであろうそのような愛は、時間の中にはありません。そのような愛は個人的でもなければ非個人的なものでもあり、一であると同時に多です、芳香をもつ花のように、あなたはその匂いをかぐか、そばを通り過ぎるかします。その花は万人のためにあり、同時に立ち止まってその香りを深く味わい、喜びをもってそれを眺める一人の人のためにあるのです。庭でそのすぐそばにいようと、遠く離れたところにいようと、その花にとっては同じです。なぜならそれは香りに満ちており、それゆえすべての人とそれを分かち合っているからです」「愛は新たで新鮮な、生き生きとしたものです。それは昨日も明日ももちません。それは思考の騒乱を超えています。愛が何かを知るのは無垢な精神だけです。そしてその無垢な精神だけが、無垢でない世界に生きられるのです。犠牲や崇拝、関係やセックス、あらゆる種類の快楽や苦痛を通じて人が際限もなく探し求めてきたこの途方もないものを見出すことは、思考がそれ自らを理解し、その結果、自然に終わりを迎えるときにだけ可能になります。そのとき愛は反対物をもちません。何の葛藤ももちません」 「あなたは、どうやってこの途方もない源泉に到達すればいいのか知りません。それであなたはどうするでしょう? もしもどうすればいいのかわからないなら、何もしないことです。断じて何もしないのです。そのとき、内的にあなたは完全に静まります。これが何を意味するか、おわかりですか? それはあなたが探していないことを、求めていないことを、追求していないことを意味するのです。そこには中心が全くありません。そのとき、そこに愛があるのです」
私たちはバスに乗り、駅へ。じゃぁね、それじゃぁね、また日曜日ね。手を振って別れる。娘は右へ、私は左へ。 ホームに立てば、ぬるい風がひょうひょうと私に吹き付けてくる。薄い上着を着てくればよかったと、今更ながら思う。 私にかかった呪縛のひとつひとつを、解きほぐしていけたらいいと、改めて思う。書き換えてゆけたらいい。書き換えて、そして今私が、そこからまた始めるのだ。 ホームに迷い込んだ千鳥が、人の間を行き来している。この鳥は本当に、人を人だと思っていない節がある。怖がるということが何処か欠けている。私はなんとなしに笑いながら、千鳥の歩く様を眺めている。 娘のホームに電車が滑り込んできた。娘が大きくこちらに手を振ってくる。私は振り返す。しばしの別れ。 さぁまた一日が始まってゆく。見上げれば空は、晴れ渡り。風が往く。 |
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