2010年03月15日(月) |
回し車をひとしきり回した後、すっと回し車から降りたゴロは自分の顔を一心に洗っている。おはようゴロ。私は声を掛ける。その声に反応して、ゴロがこちらを向く。つぶらな瞳がじっとこちらを見つめている。ふと思う。ハムスターの視力というのはどのくらいなんだろう。私はしっかり彼女を見て捉えているけれど、彼女から見たとき、私はどんなふうになっているんだろう。以前恩師が妙なことを言っていたのを思い出す。俺は乱視になりたい、と。一つの月が二つにも三つにも見えるなんて世界、素敵じゃないか、ぜひその世界の住人になりたい、と。そんな贅沢なこと、言うもんじゃないよ先生、とその時私は心の中で笑ったが、果たして、実は私も一瞬なら味わってみたいなんて思うのだった。でも、きっと頼りないんだろうな、すべてがだぶって見える世界というのは。私はきっと怖くなる、そんな気がする。そういえば以前眼科で乱視気味ですねと言われたのだった。でも今のところ、よほど目が疲れない限りは、像がだぶって見えることはない。いつかそうなるんだろうか。ちょっと心配。 顔を洗い、ついでに前髪も濡らす。癖で跳ね上がった前髪をそれで何とか落ち着ける。鏡の中自分の顔を覗いてみる。昨日の疲れは、眠って何とかとれたようだ。顔にはそんなに出ていないと思う。化粧水を叩き込み、日焼け止めを塗って口紅を引く。それだけの作業なのだが、朝だという気がする。 窓を開け、ベランダに出る。寒いといえば寒いのだが、それでも、ずいぶんぬるくなってきた。鳥肌などは立たない。足元でイフェイオンが微風に揺れている。しゃんしゃんと鈴の音が聞こえてきそうな佇まいがなんとも愛らしい。ムスカリはこれ以上首を伸ばすことはないのかもしれない。長く伸びすぎた葉の陰でひっそり咲いている。小さな小さな青と紫の間の色合い。 薔薇の新芽の様子に目を凝らす。また粉を噴いているものたちを見つけ、私は摘む。ありがとう、と言って摘む。ごめんね、と言って摘む。空はもうずいぶん明るい。日がどんどんと長くなってゆく。 お湯を沸かし、お茶を入れる。生姜茶のぴりっとしていながらほんのり甘い味が口の中に広がる。さぁ朝だ。
その美術館はもともと、障害者の表現の発表の場として作られたことを、私は今回訪れるまで知らなかった。そこでもらったプリントに、そのことが記されていた。前回来たのが夏の終わり。その時、ニキの展示が為されていた。古い古い木造校舎の四つの教室に、それぞれ作品が展示されている。小さな教室の中、ニキの作品が生き生きと輝いて見えたことを私は思い出す。 今回、東京近郊の障害者数名の作品が展示してあった。簡単なプロフィールが添えられ、作品たちがみっしり並んでいる。別に、障害者だとか健常者だとか、そんな括りは私には関係ない。どっちだっていい。自分がいいと思える作品に出会えれば、それで十分。 木造校舎という場所だからだろうか、光がとても柔らかく感じられる。それは前回来たときもそうだった。ニキの鮮烈な色彩を、柔らかく光が包み込んでいた。ひたすらに時計を描いた作品たちが並んでいるかと思えば、鮮やかな色彩で抽象的な事物を描いたものもある。そのどれもが、まるで、この小さな教室の中で笑い声をたてて遊んでいるかのようだった。 帰り、ショップに立ち寄り、何枚かのポストカードと、前回来たとき買いそびれたお地蔵さんのようなペーパーウェイトを購入する。昇降口を出ると、枝垂桜が咲いており。風がそよよと吹いて行くのだった。
「私たちが抱える最大の困難の一つは、自分の目で本当にはっきりと、外部の事象だけでなく内部の生も見ることだと、私には思われます。私たちが木や花、または人を見ると言うとき、実際にそれらを見ているのでしょうか? それとも私たちは、その言葉がつくり出すイメージを見ているだけなのでしょうか? たとえばあなたが一本の木や、美しい夕焼け空に浮かんだ雲を見るとき、あなたは実際にそれを見ていますか? 自分の目と知性を用いてだけではなく、全体として、完全に見ているか、ということです」「その木をあなたの全存在で、あなたのエネルギーすべてを傾けて観察するとき、何が起こるか試してみなさい。その強烈さの中では観察者は全く存在しないということに、あるのは注意だけだということに、あなたは気づくでしょう。観察者と観察されるものが存在するのは、不注意なときだけです。あなたが何かを完全な注意と共に見るとき、そこに観念や決まった方式、記憶が入り込む余地はありません」「美とは何かを知るのは、完全な自己放棄をもって木や夜空の星、川の流れのきらめきなどを見る精神だけです。そして本当に見ているとき、私たちは愛の状態にいるのです」
テレビの中、デコ弁なるものが紹介されている。デコ弁を作るためのグッズを紹介しているのだが、それを見ていた娘が一言。無駄だよ。 え、何が無駄なの? だってさ、どうせ食べちゃうんだよ。え、でも、お弁当開けたとき、かわいい絵が描いてあったり、色が賑やかだったりしたら、嬉しくない? えー、食べづらいよ。え、そうなの? うん。どうせおなかの中に入ったら一緒じゃん。おなかん中で、みんな一緒になるんだよ。いや、まぁ、そうなんだけど。じゃぁママ、デコ弁とか作らなくていいの? 要らないよ、全然要らない。食べればみんな一緒。…。 そんなもんなのか? 私はまぁ、楽でいいけれども、結構これでも悩んだ時期があった。世のお母様方は、一生懸命子供のためにお弁当を作っている。色とりどりのお弁当。自分にはとうてい作れない代物。それは結構なコンプレックスだった。娘に申し訳なく思っていた。しかし。そんなもの作る必要はないらしい。気にする必要はないらしい。 これは娘が私に気を使って言ってくれてることなんだろうか? それとも彼女の本心なんだろうか? 分からない。全く分からない。が。 赤黄緑。この三色がとりあえず揃っているなら。それでいいや、もういいや。難しく考えることはやめた。おいしいお弁当ならそれでいい。娘よ、ありがとう。母、嬉しい。
寝る前に、二人でお握りを握ろうとご飯を炊いた。しかし。娘は、ミルクを抱いたまま、一向に握ろうとしない。ねぇ握ってよ。私が言う。やだよ、と娘。どうして、一緒に握ろうよ。やだ、無理、熱いもん。平気だよ、タオル持っておいで、それに包んで握ったらいいよ。えー、やだ。そんなんじゃママがいなくなったとき大変だよ。そのときはそのときだよ、そうなったらやるからさ、ね、ミルク? いや、ミルク関係ないし。いいじゃん、今は今、そのときはそのとき。おにぎりぐらいなんとかなるさ! …。 結局、四合分のご飯全部、おしゃべりをしながら私が握った。塩の加減だけ娘が見てくれた。まぁ今はそれでいいのかもしれない。と思うことにする。
「美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中に存在します。そして自己放棄が可能になるのは、全的な簡素さ―――厳格さや許認可、規律や服従に縛られた聖職者の簡素さや、衣服や考え、食べ物や態度上の簡素さではなく、完全な謙虚さを意味する、全的にシンプルであることがもつ簡素さ―――があるときだけです。そのときは何の達成も、登るべきどんな梯子もありません。あるのは最初の一歩だけであり、その最初の一歩が永遠の一歩なのです」「あるのは全体的で、完全な、単独の精神の状態だけです。それは独り―――孤立ではなく―――です。精神は静寂の中に独りあり、そしてその静寂が美なのです。あなたが愛するとき、そこに観察者がいるでしょうか? 愛が欲望や快楽であるときにだけ、観察者が存在するのです。欲望や快楽が愛に関与しないとき、愛は強烈です。それは美のように、日々新しいものです。すでに申し上げたように、それは昨日も明日ももたないのです」
ねぇママ、これって私が悪いの? ―――最近娘は私にそういう尋ね方をよくする。これこれこんなことがあったんだけれど、これって私が悪いの? という具合。だから私は逆に尋ねる。あなたはどう思っているの? たいてい彼女は、私は自分は悪くないと思う、と応える。そういうときに彼女は私に尋ねてくるのだと思う。自分は悪くないと思うけれど、どうなの? というような。 だから私はできるだけ丁寧に、それを紐解くことにしている。こんなことがあったんだね、それであなたはこうしたんだけれども、相手はこうだったんだね、あなたはこんな気持ちでやったわけなんだけれども、じゃぁ相手はどんな気持ちでそれをしたんだろう? どっちがいいとか悪いとか、判断するのは、その場にいたわけでもないのだから正直私にはできない。だから訊いてみる。彼女から見て相手はどういう気持ちだったと思える? と。 いいとか悪いとか、そんなことよりも、もしかしたら大切なことが見落とされてるかもしれないよ、と。 彼女はそういうとき、口を一文字に結んで考えている。いくらでも考えてみればいい。考えて考えて、もしそこで気づけることがあるなら。
じゃぁね、それじゃぁね、私たちは手を振って別れる。バスに飛び乗ろうとした瞬間、娘の声が響いてくる。通りの向こう、ベランダに出て娘が手を振っている。私は思い切り振り返す。 電車に乗り、がたごと揺られながら私はぼんやり流れ往く景色を眺める。私はこの景色をあと何度見るのだろう。あと何度見たら、ここから離れることができるんだろう。まだまだ先かもしれないけれど、いつか、この景色を見なくても済むようになれたらいい。 電車が川に差し掛かる。川は朗々と流れ。一時も止まることなく流れ続け。陽光を受けてきらきらと輝くその光は、川と戯れ遊んでいる。 さぁ今日もまた一日が始まる。 |
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