| 2010年03月17日(水) |
昨日の勢いで窓を開けたら、寒い。驚いた。こんなにも気温に違いが出るとは。肌が粟立つ。両手で両腕をこすりながら、ベランダに立つ。でも何だろう、私はこのくらいの温度の方が実感がある。自分と世界との間を感じることができる。ぬるいと自分の体温を実感することがなかなかできなくて困る。粟立つ肌に構わず、私は大きく伸びをしてみる。夜明けはまだだけれども、もう緩んできた空の色は、藍色を水で溶かしたかのような色。穏やかでいながら、しんしんと張り詰めた色。 昨日のあたたかさのおかげで、イフェイオンが次々花開いている。しゃんしゃんという鈴の音が聞こえてきそうな雰囲気に、私は元気付けられる。そうしてムスカリも、昨日のあたたかさのおかげなんだろう、首をぐーんと伸ばしてきた。ようやく葉の茂みより高い位置に花がやってきた。花は小さいけれども、これなら「ムスカリ」と呼んで差し支えない姿になってきた。ちょっと前まではあまりにちびっこい花で、その姿はずんぐりむっくりのきのこのようだったのだけれども。 もうだいぶ前になるけれども、生姜の蜂蜜漬けを買った。それはそれでおいしい代物だったのだけれども、私には甘すぎて、なかなか飲めなかった。そこで檸檬を一個分スライスして入れてみた。もうそれなりに日にちは経っているはず。今朝その蓋を開けてみる。ぷわんと私好みの匂いがする。スプーンでマグカップに掬って一杯、二杯。そこにお湯を注いで。飲んでみれば、なんともまぁいい感じ。檸檬と生姜のそれぞれの刺激が、蜂蜜の甘さを緩和してくれる。これなら私でも飲める。 珍しくゴロではなくココアが起きてきている。おはようココア。私は声を掛ける。ココアは鼻をひくひくさせてこちらを振り向く。私は右手の人差し指で彼女の頭をこにょこにょ撫でてやる。彼女は気持ちよさそうに目を細めている。だから私はついでに背中も撫でてやる。するとすっと体を交わして、回し車に飛び乗るココア。 天気予報をつけると、北海道に暴風雪注意報が出ているという。北海道に住む友人はどうしているんだろう。椅子に座って窓の外を見やりながら、そんなことを思う。
どのくらいぶりだろう。友人と会った。多分年末にちょっと会ったきりなんじゃぁなかろうか。数少ない、昔を知っている友人の一人だ。 彼の友人たちと、私は高校生の頃に自主制作で映画を作った。それがきっかけで知り合った。それは今考えても奇妙な縁で、私が自主退学した高校に在学していた彼らから、映画に出てくれないかと話が回ってきたのだった。一体何処からどうしてそういう話になるのか訊いた覚えがある。当時私が演劇をやっていたことを、共通の知人から聞いたらしい。たまたま主演を打診していた子から断られたために、私に声が掛かることになった、ということらしい。映画作りには参加したい、でも、その舞台はよりによって私が辞めた学校なのだという。私は迷った。どうしようかかなり悩んだ。悩んだ結果、受けることにした。 奇妙な映画だった。学校というか社会にあまり適応していない女の子が繰り広げる、奇妙な映画だった。私が一番覚えているのは、三階から飛び降りるシーンだ。もちろんフィルムを繋げるという作業があったわけだが、三階だか四階だかの窓枠に立つときは、すごく気分がよかった。私は高いところが大好きだった。その窓枠に立って辺りを見下ろすと、すべてのものが小さく見えた。それまでこだわっていたものたちも何もかもが、これっぽっちの小さな粒に見えた。私はできるなら、本当にここから飛び降りたい気持ちだった。それができないのがひどく残念でならなかった。 そういえばあのフィルムは、今は何処にあるのだろう。私は出来上がりを二度ほど見たきりだと思う。今見たいわけじゃない。正直見たくはない。恥ずかしくて見れたものじゃぁない。でも。懐かしい。 そんな縁のある友人の話す声に耳を傾ける。友人の声はいつでも落ち着いている。同時に弾んでもいる。適度に弾み、適度に穏やかで、といった具合か。だから聴いていてこちらも穏やかになれる。 そんな友人も、そろそろ転勤の時期だ。今度飛ぶとしたら、北海道か新潟か、その辺りだという。そんなところに友人が飛んでしまったら、さぞ寂しくなるだろうなぁと思う。それは私だけじゃぁない。遊び相手になってもらっている娘にとっても同じだろう。しかも友人は、私の、でこぼこ道をずっと見てきてくれている。そんな相手が遠くにいってしまうことは、とても、寂しい。仕方のないことと分かっていても。離れたからといって縁が切れるわけではないと分かっていても。
「観察者が観察されるものなのです」「観察者が観察するものであることを明らかにするのは、気づきそれ自体なのです」 「観察者が観察されるものであるというこの気づきは、観察されるものへの自己同一化のプロセスではありません」 「観察者の側のどんな動きも、もしも彼が観察者が観察されるものであるということを悟っていないなら、別の一連のイメージをつくり出すだけに終わり、またしてもその中に捕らえられてしまうのです。しかしその観察者が、観察者が観察されるものであるということに気づいたとき、どんなことが起こるでしょう?」「観察者は全く活動していません」「観察者が自分が働きかけているそのものが彼自身であるということを悟るとき、彼自身とそのイメージとの間の対立・葛藤はありません。彼がそれなのです」「観察者が自分がそれであることを悟るとき、そこに好悪はなく、葛藤は終わるのです」「そのときあなたは、とてつもなく生き生きとしたものになる気づきがそこにあるのに気づくでしょう。それはどんな中心的問題にも、どんなイメージにも縛られていません。そしてその気づきの強烈さから、異なった性質の注意が生まれ、それゆえに精神は―――その精神がこの気づきなので―――並外れて鋭敏で、高度に英知に満ちたものになるのです」
ママ、ココアとゴロとミルクと、誰が一番好き? みんなだよ。だめ、それじゃぁだめ、ちゃんと一番ってつけて。じゃぁ、ココア。どうして? ミルクは? ミルクはでぶちゃんだよ。じゃぁゴロは? うーん、やっぱりココア。あ、分かった、ゴロはゆるゆるうんちするからでしょう? 当たりー。でもね、そのうんち、治るよ。そうなの? うん、餌をね、ひまわりの種を多めにあげるといいって本に書いてあった。あらまぁそうなんだ。うんちがゆるゆるじゃなくなったら、ココアとゴロ、どっちがいい? うーん、でもやっぱりココアがいい。えー、そうなの? ははは。みんな好きだから、決めようがないんだよ、ママは。みんな好きなんて、ずるいよなぁ。絶対一番好きっていうのがあるはずなんだよ。なんでそう思うの? だってさ、誰にだって好き嫌いあるじゃん、いい悪いもあるし。うーん、そうかなぁ。確かに好き嫌いだけで言ったら世界中のすべてに順番がつけられるのかもしれないけれども。でしょう? でもママは、単純に好きか嫌いかだけじゃぁないなぁ。ママに合う合わないはあるかもしれないけれども、好き嫌いだけで決めるってのはどうなのかなぁ。なんで? いいところもあれば悪いところもあるってのが生きてる証拠みたいなものでしょう? いいところだけの人間はいないし、悪いところだけの人間もいないと思うよ。それ、奇麗事じゃないの? うーん、そうなのかなぁ。でもママ、一瞬嫌いと思った人との縁も、長い目で見れば、そんなことはないなぁ、この人にもこんないいところあるしなぁって思うよ。変なのー。そうかなぁ、そうなのかなぁ。私、嫌いなものは嫌いだし、好きなものは好き。ええー、あなただって、昨日嫌いって言ってた子と今日遊んでたりするじゃない。え、あ、まぁ、それはあるかもしんないけど、でも、好きと普通は違うよ。はっはっは。
「思考は観念であり、脳細胞に蓄積された記憶に対する応答です」「私たちは観念を行為から分けてきました。なぜなら、観念はいつも過去のものであり、行為はつねに現在だからです。つまり、生きることはつねに現在なのです。私たちは生きることを恐れています。そしてそれゆえ、観念としての過去が私たちにとっては非常に重要なものとなったのです」 「私たちはなぜ奉仕したがるのでしょう?」「助ける、与える、奉仕するといったそれらの言葉は何を意味するのでしょう? それはそもそも何のためなのですか? 美と光と愛らしさに満ちた花が「私は与えている、助けている、奉仕している」と言うでしょうか? 〔言うはずがないので〕それはあるのです! そして何もしようとしないがゆえに、それは大地を覆うのです」 「もしもあなたが自分がどんなふうに考え、なぜ考えるのか、どんな言葉を使い、日常どんなふるまいをしているのか、人にどんな口の利き方をしているのか、どんな応接の仕方をしているのか、どんなふうに歩き、どんな食べ方をしているのか、その構造全体を理解するなら―――もしもこうしたことすべてに気づいているなら―――、そのときあなたの精神はあなたを欺くことはなくなるでしょう。そのとき欺かれるものは何も存在しないからです。精神はそのとき、要求し、服従させるものはなくなっています。それは並外れて静かで、柔軟、鋭敏なものに、独りになるのです。そしてその状態の中には、どんなものであれ、欺瞞は存在しないのです」「あなたは気づいたことがありますか?―――自分が完全な注意の状態の中にいるとき、観察者、思考者、中心、「私」が終わるということに。注意のその状態の中で、思考は萎えしぼみ始めるのです」「もしも人がものを非常に明確に見たいと思うなら、精神は非常に静かでなければなりません。どんな先入観、おしゃべり、対話、イメージ、画像も、そこにあってはならないのです。見るためには、こうしたすべてを脇にどけておかねばなりません。そしてあなたが思考の始まりを観察することができるのは、沈黙の中にいるときだけなのです―――あなたが探し求め、質問し、答を待っているときではなくて。ですから、その沈黙の中から思考がどのようにしてかたちづくられるのかを見始めるのは、あなたがあなたの存在すべてにおいて完全に静まり、「思考の始まりとは何か?」という問いを発するときだけなのです」
お茶を飲んでいるところに友人から連絡が入る。今日手術を受けることになったという。私は、ちょうど去年、娘が骨折したときのことを思い出す。似通った場所を骨折したという友人。さぞ生活に不自由しているだろうと思う。でも同時に、友人にとっていい休憩時間になったら、とも思う。 手術が終わって、数日したら退院になるそうだ。落ち着いたらお見舞いに行こうかと思う。
寒い寒いと言いながら娘がシャツ一枚パンツ一枚で歩いている。どうもこの辺が、女所帯の悪しきところとでもいうべきか。もうこの春で五年生にもなるのだから、多少恥じらいが出てきてもいいだろうと思うのだが、彼女は遠慮がない、恥じらいがない。恥じらいの「は」の字さえ、頭にはないんだろうと思う。 少し前から来談者中心療法の関連著書を読んでいるのだが、事例がたくさん載っていて、読むほどに、唸ってしまう。来談者中心療法は、技法がないと言われるが、とんでもない、これほどカウンセラーの人格を問われる療法はないだろうと思う。そして思う、今勉強していることは、どれだけ自己を省み、受け容れてゆけるか、その土壌を作っているようなものだ、と。道は遠い。
じゃぁね、それじゃぁね、ママもしっかり勉強するんだよ、あなたもね。手を振り合って別れる。南東から伸びる陽光が目に眩しい。私は思わず手を翳す。 寒いと思いながら、昨日とほとんど同じ格好で出てきてしまった。今更着替えに戻るというのもなんだか。私はそのまま自転車に乗る。が。 サドルの皮が切られている。見て、私はかなりショックを受けた。大事にしている自転車なのに。どうして。たまらない気持ちになった。同時に頭は別のところで動いている。いざとなったらサドルを買い換えれば、この自転車自体は生かし続けることができるだろう。大丈夫、大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせる。怒っても今更どうにもならない。為されてしまったことが消えるわけでも戻るわけでもない。 公園の前で、大型犬三頭を連れた老婦人が立ち止まっている。三頭とも見事な毛並みで。黒、白、茶。おだやかな目をしている。私はその脇をすり抜けて走る。大通りを渡るところで、信号無視してきたトラックと鉢合わせする。自転車が傷つけられたことが心にひっかかっていたのだろう、思わず、馬鹿者!と心の中で悪態をついてしまう。ついてから、私は自分を笑ってしまった。何をしているんだろう、私は。人の心ってほんと、おかしなものだ。 高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木が陽光を受け、黒々として見える。大丈夫、傷つけられたからといって君を棄てるようなことはないよ、大事な自転車だからね、ちゃんと使い続けるよ。私は誰にともなく言ってみる。 モミジフウにも新芽の気配。その大きな大きな立ち姿は、いつ来ても見惚れてしまう。すっくと立ったその姿。なんて力強く、それでいて静かなのだろう。こんなふうに、立っていられたら。つくづく思う。 海と川とが繋がる場所に、鴎が集っている。啼き声が鋭く辺りに響き渡る。彼らの白い体躯が、陽光を受けてきらきらと輝く。 さぁ今日も一日が始まる。 |
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