見つめる日々

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2010年03月19日(金) 
目を覚ます。時計を見れば午前四時。まだ早いなぁと思いつつ、どうしようか迷う。隣の布団で寝ていたはずの娘は、いつの間にか私にくっついて眠っている。彼女の体に触れないように、そっと自分の体の位置をずらして起き上がる。
窓を開けると、外では天気予報の通り、雨が降っている。でもこの雨はじきに止みそうだ。そんな気がする。手を差し出して雨粒を確かめる。ぽたぽたと空から堕ちて来る雨粒。小さな粒。手のひらに二つ三つ、それは私の手のひらに堕ちた途端、ぺしゃりと潰れて星型のように広がる。
ベランダの柵に沿って置いてあるプランターの中、イフェイオンの花がたくさんの雨粒をつけている。試しに指で花を弾いてみる。ぽろろん、と、雨粒が落ちてゆく。もう一度。ぽろぽろろん。なんだか楽しい。私は今咲いている花全部を指で弾く。
ムスカリはどうだろう。三角錐の花の、下のほうに雨粒が溜まっている。指で弾くと、ぽてん、と雨粒が土に落ちた。同じように花についている雨粒だというのに、イフェイオンとムスカリとでは大きく落ちる様が異なる。ぽろんとぽてん。私はムスカリの花も全部、指で弾いて遊んでみる。ぽてん、ぽてぽてん、ぽてん。何だか朝から音の洪水。
昨夜は風がそんなに強くなかったのだろうか、ベランダの内側には吹き込んでいない。薔薇の樹の根元の土に触れてみて思う。よかった。ほっとする。特にミミエデンは、これ以上病気をひどくさせたくない。だから水も、必要最小限の量しか遣りたくない。ミミエデンの新芽は次々、粉を纏ってしまう。産まれたその瞬間に、粉を纏っているのか、それとも産まれる前にすでに粉を纏っているのか、それは分からないけれども。どうしたらいいんだろう。また石灰を土に混ぜた方がいいんだろうか。少し悩む。
顔を洗い、鏡を覗く。もうすっかり目の覚めた顔がそこに在る。おはよう、とりあえず自分に言ってみる。胃の辺りに違和感を覚える。何だろう。しばらくその違和感を辿ってみる。しこりのようだ。僅かだけれども、じくじくと痛む。でも同時に、穴が開いているようにも思える。それは底のない穴のようで。その穴を私はあまり見たくないと思う。穴に吸い込まれてしまいそうな気がするから。そうするとまた、過食嘔吐の発作が出てしまいそうな気がするから。穴を埋めるために食べてるのかもしれない、そのときふと思った。こうした穴ぼこが私の体の中にはいくつもあって、その穴ぼこを私は埋めたい埋めたいと無意識に思っているのかもしれない、と。そういえば昔、親しい知人にも、言われたことがある。おまえは穴ぼこだらけだなぁ、と。あれはいつだったか、確か大学生の頃だった。しみじみと言われたのだった。あの頃空いていた穴ぼこは、埋まったのだろうか。それとも今もまだ空いたままなのだろうか。自分では、少しは少なくなったように思うのだけれど、どうなのだろう。
そうした胃の辺りの違和感を感じながら、私は化粧水を叩き込む。そして日焼け止めを塗って、今日はそれで終わり。
お湯を沸かし、生姜茶を入れる。お茶っ葉がそろそろなくなってきた。買い足しに行きたいけれどもまだ売っているだろうか。先日訪れた店には、生姜紅茶はあったけれども、生姜黒茶はなかった。黒茶の方が好みなのだけれども。もしなかったら、生姜紅茶でも買おうか、どうしようか。とりあえず、買える分だけお財布にお金が入っているかどうかを確かめる。大丈夫、今月はジリ貧だけれど、お茶くらいは買えそうだ。よかった。
お茶を飲みながら、この時間をどう過ごそうか考える。本を読むか。ノートを整理するか。いや、その前に煙草を一服でしょう、やっぱり。

今読んでいる「来談者中心療法」という本の中には、事例がたくさん掲載されている。その中の、梢の事例、遊戯療法のところを読んでいて、もう少しで涙が出そうになった。自分が入り込みすぎたことはもちろん分かっている。クライアントである梢の、遊び方に、胸をぎゅぅっと鷲掴みにされたのだ。なんて切ない遊びをするんだろう、と。そしてまた、ここで繰り広げられる、セラピストとクライアントの関係に、胸を打たれた。あぁもしこんな関係を持つことができたら、どんなに救いになるだろう、と。
私は遊戯療法についてまだほとんど知らない。そういうものが在る、という程度しかまだ知らない。だから専門的なことは何も分からないが。こんなふうな相手が自分にもいたら、とさえ思った。そうしたらどれほど救われただろう、と。
私は、自分が、カウンセラーとのラポールを築くことに失敗したせいか、カウンセリングに対してもしかしたら強度の偏見を持っているのかもしれない。自らカウンセリングの勉強をしていながら、私はどこかで、どうせ、と思っているのかもしれない。

つくづく思う。私は今のカウンセラーとは、信頼関係を築けなかった。私がカウンセリングを辞退した理由はそれだ。医者は、単なるおしゃべり相手として見ればいいと言ったが、単なるおしゃべり相手にしたって、ある程度の信頼関係がなければ私には無理だ。今気づいた、もしかしたら医者は、単なる社交を私にやらせたかったのかもしれない。でも、単なる社交のやりとりをするなら、わざわざお金を払ってカウンセリングの時間をとらなくても為そうと思えばできる。いや、しなければならない場面が多々あるわけで。そんなものにお金を払いたいと思う人がいるんだろうか。私は少なくとも、そうは思えない。
こんなことがありました、一週間こんなふうに過ごしました、と話すだけにしても、その相手に話したいと思わなければ私には無理だ。でも、そういう、話したいと思える相手にはならなかった。
もしカウンセリングを再開させるとしたら。私がこれまでの彼女に対する違和感をすべて、私が洗い流すことができたときなんだろう。そうでなければ、別のカウンセラーを探すしかないと思う。
学校で勉強すればするほど、今自分が受けているカウンセリングとの違いを、感じてしまうのだ。そして、私はわざわざお金を払ってまで時間を割いている、この場で、何をやっているんだろうと思えてしまう。
こういう気持ちを洗い流すことができなければ、こうした偏見のようなものを拭い去ることができなければ、私は再び、あのカウンセラーとのカウンセリングの場に戻ることはできないんだろうと思う。そのくらい、信頼関係というのは大切なのだと、改めて思う。それがなければ、何も始まらないのだ。
自分に対する戒めとして、このことはしかと覚えておこうと思う。

「あなたが真理またはリアリティの体験を求めるとき、まさにその欲求が現にあるものに対するあなたの不満から生まれているのです。だから、要求がその反対物をつくり出すのです。そしてその反対物の中にこれまであったものがあります。ですから人はこの執拗な要求から自由でなければならないのです。さもなければ二元性の回廊に終わりはないことになります。このことが意味するのは、精神がもはや探し求めることがなくなるまでに、完全にあなた自身を知らなければならないということです」「あなたがなすべきことは、精神がどこをさまよっていようと、その各瞬間の動きにつねに注意を払っているということです。あなたの精神がさまよい出てしまうなら、それはあなたが他のことに関心をもっているということなのですから」
「瞑想はあらゆる思考と感情に気づいていることです。正しいとか間違っているとかは決して言わず、ただ見守り、それと共に動くことです。その観察の中であなたは思考と感情の動き全体を理解し始めるのです。そしてこの気づきの中から、沈黙がやってきます。思考によって〔意図的に〕つくられた沈黙はよどみであり、死んでいます。しかし、思考がそれ自身の始まり、それ自身の性質を理解したときにやってくる沈黙、なぜすべての思考は自由ではありえず、つねに古いのかということを理解したときにやってくる沈黙は―――この沈黙が瞑想なのです。それは瞑想者が不在の瞑想です。というのも、精神はそれ自身を過去からすっかり空っぽにしてしまっているからです」
「あなたが自分自身について学ぶとき、自分自身を見守るとき、自分の歩き方、食べ方、口にする言葉、ゴシップ、憎悪、嫉妬を観察するとき―――もしもあなたが自分の中のそうしたすべてに無選択に気づいているなら、それが瞑想の一部なのです」「瞑想の理解の中に、愛があります。そして愛はシステムや習慣、メソッドに従うことの産物ではありません。愛は思考によっては育成できません。完全な沈黙があるとき、瞑想者が完全に不在の沈黙があるとき、愛はたぶん出現するのです。そして精神は、それが思考や感情としてのそれ自身の動きを理解するときにだけ、静まることができるのです。思考と感情のこの動きを理解するためには、それを観察する際に非難があってはなりません。そんなやり方〔非難も正当化もない〕で観察するのが規律であり、そしてその種の規律は滑らか、自由であって、適応の規律とは異なっているのです」

ママ、なんか機嫌悪い? え、悪くないよ。いや、悪いよ。なんで? 声が低い。いや、今、ご飯作ってるから静かなだけだよ。じゃ、こっち見て。何? んーーー(変な顔)! ぷっ、何やってんの、あんたは。あー、笑ったー! そりゃ笑うでしょ、そんな変な顔されたら。だからさー、もっとにこにこしなよ。何もないのににこにこしないよ、ママは。生きてるだけで楽しいじゃん。い、いや、そうでもないよ。えー、そうなの? う、うん、別に、生きてるだけで楽しくはない。損してるねぇ、ママ。笑ったもん勝ちだよ、人生なんて。え、あ、はい、人生なんて、ね、まぁ確かにね、笑ったもん勝ちですね、はい。そう思います。でしょ? ママの顔はさぁ、きつい顔なんだからさー、普段、にこにこしてないと、みんなびびっちゃうよ。は、はい、分かりました。よろしいっ。
確かに。このところ、なんとなく目尻が上がってきた気がする。どうしてなんだろう。別にきつい顔をしている覚えはないのだけれども。顔って、こんな年齢になってまで変化するもんなのか、と、改めて思う。
それにしても。十歳の娘に、「人生なんて」「笑った者勝ち」だと言われるなんて。思ってもみなかった。いや、年齢関係ないな、こういうのは。つくづく思う。

じゃぁね、それじゃぁね、今日授業だから戻るの遅くなるよ。分かってる。私たちは手を振り合って別れる。階段をたかたか降りて、バス停へ。雨はいつの間にか止んでいる。これなら傘を持って行かなくても大丈夫だろう。
バス停が少し前から変わった。今バスがどの辺りを走っているのかが、表示されるようになったのだ。今ちょうどバス停で数えると三つ前のところを走っているらしい。程なくバスがやって来た。こういう表示はすごく助かる。
バスの中からぼんやり流れる景色を眺める。今日からアートセラピーに入る。早いもので、もう授業のカリキュラム半分が過ぎた。あっという間だ。これから半年はますますあっという間なんだろうと思う。
駅を渡って反対側へ。川を渡るところで立ち止まる。暗緑色の水面。今日の川はいつもよりゆっくりと流れているのか、所々に澱みが見られる。不思議だ。同じ川だというのに、一刻も同じ顔がない。ちょうど射してきた陽射しが、水面に突き刺さる。途端にぷわぁっと光り輝く川。
さぁ、今日も一日が始まる。私は重たい鞄を肩にかけ直し、再び歩き出す。


遠藤みちる HOMEMAIL

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