見つめる日々

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2010年03月20日(土) 
目を覚ますと午前四時。また少し早い。でも起きてしまったのだからと体を起こす。大きく伸びをしてみる。眠っている間に強張っていた体がいっぺんにぎゅうっと伸ばされる感じ。ばきばきと背中が鳴るわけじゃぁなかったけれど、何となく気持ちがいい。そのまま窓を開け、私は外に出てみる。朝夕はまだまだ寒いけれど、きっと今日もいい天気になるのだろう。昨夜見た薄い月を思い出す。爪の先で空に穴をあけたような、そんな形をしていた。美しい、凛とした月だった。
ベランダではイフェイオンが次々花を開かせている。まだ開いたばかりの、ぴんと花びらの張っていないものもある。これから咲きますよと合図しているかのように、首がほんのり曲がっている。でも最初から花弁の色をいっぱいに見せているところがイフェイオンらしいというか。私はここよと言っているかのよう。それは叫んでいるのでも呟いているのでもなく、ゆったりと、でもはっきりとした声音で。
昨夕、ミミエデンの周りにだけ、石灰を改めて撒いてみた。これで少しだけでもよくならないだろうか。うどん粉病は本当にしつこい。こちらが追いかけたら追いかけた分だけ逃げてゆく感じがする。でも、これで諦めてはいられない。せっかく生きている樹なのだもの、花開かせてやらなければ。私はこのミミエデンの花咲くところが見てみたい。
お湯を沸かしていると、ゴロが砂浴びに出てくる。ころりんと砂の上でひっくり返ったかと思うと、器用に短い手足を動かして砂を浴びている。おはようゴロ。私はそっと、砂浴びが終わったところで声を掛ける。彼女はぴょんと砂浴び場から出てきて、こちらを見やる。ゴロは臆病だ。遠慮がちともいう。私の手のひらに乗せても、ぴくぴくぴくと背中を震わせて、おっかなびっくりといった様相。それでも、鼻面を私の手のひらにくいくい押し付けてきてくれるのだからかわいい。
顔を洗い、鏡を覗く。そうして目を瞑り、深呼吸してから、体の感じを辿ってみる。昨日もあった胃の辺りのしこり。今朝もまだ残っているが、それでも昨日よりは薄れた気がする。胃のしこりと、穴ぼこと、両方に私は挨拶してみる。まだ君たちをしっかり見ることができるほどの余力は私にはないけれど、君たちがそこに在ることはちゃんと分かっているよと伝えておく。穴ぼこを覗いて、それがまだ深遠であることを確かめる。いつか底は現れるんだろうか。
私が朝の仕事をどうしようか迷っていると、いつの間に起きたのか、娘が、早くやんなよと言ってくる。私がおはようと返すと、おはようございますと返ってくる。まだ半分寝ぼけているようだ。生姜茶を入れ、私はとりあえず椅子に座ってみる。やるか。自分に言い聞かせるようにそう呟いてみる。そうだ、やらなきゃ何も始まらない。

授業の日。今日から六回、アートセラピーを扱う。今日はとりあえずさわりの部分のみの講義。
講義を聴きながら、私にとって写真がどういうものだったかを改めて思い返している。今思えば、あの頃私は、言葉にならないものをどうしようもなく言葉にできない、でも溢れ出す何かを持っていたのかもしれないと思う。あの勢いは本当に止めようがなかった。どうしてもこれを表現したい、というものがあった。それを表現するためになら、何をしようと厭わないというような、そんな勢いだった。
たまたま本屋で見つけた、森山大道氏の写真集で、私は見つけた。この感触だ、と。この画面が欲しい、と。ざらりとした感触。それが、自分に欲しいと思った。
それが契機になって、一気に、写真嫌いの私が、写真を撮るんだという立ち位置に変わった。こんな画面をあらわすためには、何が必要なのかを、知人という知人に訊いて回った。偶然にも、写真をやったことのある知人が、私に、フィルムから何から、紹介してくれた。さぁ道具は揃った。あとはやるだけ。
知人がハウツー本も揃えてくれていたのだが、それを読んでいるのさえ惜しかった。私は見よう見真似で、とにもかくにもやり始めた。まず思いつくまま撮り、それをプリントする。それだけの作業だったのだが、四苦八苦もいいところだった。これまで拒絶していた、大嫌いだった写真というものに取り組むことも、プリントすることも、何もかもが初めてで。何が何だかという感じだった。でも。
暗闇の中、印画紙に浮かび上がる像を見たとき。あぁ、ここからだ、と思った。暗闇の中で私は、万歳をしたい気持ちだった。
そうして私は、自分の手足を、これでもかというほど撮った。私は確認したかったのだ。自分の手足は果たして何者なのか、ということを。考えてみれば、撮り始めの頃、まだ私はリストカットをしていなかった。だからあの頃の私の腕は、のっぺりと滑らかだった。まだ本当に、滑らかだった。
その頃の私には、自分の体が別物のように思えてならなかった。自分の体は借り物で、もうどうしようもなく借り物で、だから私の物じゃぁなくて。私の心と体とは、これでもかというほど離れていた。それを、できることなら少しでも近づけたかった。自分の体を、あぁこれが自分の体なのだと納得したかった。
だから、私の写真は、自分を確かめるというところから始まっているといっていいのかもしれない。自分を確かめる作業として、私は写真という術を選んだ、それだけのことだ。
それはやがて、世界と自分との絆を取り戻す作業へと移ってゆく。私にとって、病を患うと共に色を失った世界は、これまでの世界とは全く異なるものだった。人という人がすべてのっぺらぼうに見え、音という音がきんきんとしたこれまでにない音を奏で、物という物すべてが、私を拒絶しているように見えた。世界と私との絆は、ぷっつり切れていた。それを、何とかして取り戻したかった。
そうしてカメラは外に向かう。次々に、撮れるものは何でも撮った。自分の琴線に触れるものは何でも。そうやって、私の足元にはフィルムが次々溜まっていった。
写真の中で忘れてならないのは、焼くという作業だろう。この作業が私にもたらしたものの大きさははかりしれない。
暗闇の中、ただ一点に集中し、焼いていく。その作業は、私を何度生き返らせただろう。生き延びさせただろう。この夜をもう越えられないというとき、どれほどに私を支えただろう。
あの時期、あの作業があったから、私は生き延びたといっても過言ではないと、思う。
知らぬうちに、そうやって続けてきた写真というもの。今ではまるで呼吸するように、そこに在る。以前のように、まるでかじりつくかのような関係では、なくなった。私は私としてここに在り、写真は写真としてそこに在る。そういう関係になった。
これからも関係は変化していくのかもしれないが。
多分死ぬまで、私はカメラを傍らに置いているのだろうと思う。親しい友達のように。

「毎日、私たちは人間の中の暴力の結果として世界中で起きているぞっとするような出来事を見たり、それについて読んだりしています。あなたは言うかもしれません。「私はそれについて何もできない」あるいは「どうやって私が世界に影響を及ぼすことができるのだ?」と。思うに、あなたは世界にものすごく大きな影響を及ぼすことができます―――もしも自分自身の中であなたが暴力的でなく、もしもあなたが実際に毎日平和な生活を送るのなら―――競争的でも野心的でも、ねたみ深いものでもない、不和をつくり出さない生活を送るならば。小さな火が大きな炎となります。私たちは世界を、私たちの自己中心的な活動や偏見、憎悪、ナショナリズムによって今あるような混乱状態に陥れてしまいました。そしてそれに対して何もできないと言うとき、私たちは自分自身の中の無秩序を不可避のものとして受け入れているのです。私たちは世界を分裂させてバラバラの断片にしてしまいました。そしてもしも私たち自身がこわれた、断片化したものなら、私たちの世界との関係もまたこわれてしまうのです。しかしもしも、私たちが行動する際、〔内的に分裂し断片化した混乱状態からではなく〕全体として行動するなら、そのとき私たちの世界との関係は大きな革命を経ることになるのです」「価値のあるどんな運動も、何らかの深い意義をもつどんな行動でも、私たち一人ひとりから始まらなければなりません。私がまず変わらなければならないのです。私は世界との自分の関係がどのような性質と構造のものなのかを見なければなりません。そしてその見ることそのものの中に行なうことthe doingがあるのです。それゆえ私は、世界に生きる一人の人間として、異なった性質のものをもたらすのですが、その性質が宗教的な精神がもつ性質なのだと、私には思われるのです」

娘が突然言う。ママ、もうパパって会えないの? うーん、会えないかもしれないな。どうして? 会えるのかと思ってた。そっかぁ。ねぇママ、次のパパっていないの? え? 次にパパになってくれる人っていないの? うん、今のところいないね。なんだぁ、つまんない。早くパパ作ってよ。そんなこと言われたってねぇ、相手がいなきゃ、パパも何もないんだよなぁ。ママってもてないの? へ? ママ、男にもてないのかってことだよ。もてないのかもしれないねぇ、うん。だめじゃん! だめだねぇ。私、パパ欲しいんだけど。い、いや、そう言われても。周りに男がいないさね。もうっ! だめだめっ! しっかりしてよ、ママ! うーん、困ったなぁ、そう言われてもなぁ、今ママ、恋愛するって感じでもないしなぁ。あぁもうっ、ママねぇ、私のこともちょっとは考えてよね。え? 考えるって? 私にパパがいないのってかわいそうだと思わないの?! う、うん、そりゃまぁ、それは…。あなたはどういうパパさんがいいわけ? そりゃ、私といっぱい遊んでくれるパパがいい。それから? かっこいいパパがいいなぁ。 それから? それからそれからって、その前に、相手見つけてよっ! はいはい。

それじゃぁね、じゃぁね、月曜日の夜帰ってくるよ。うん、分かってる。メールちょうだいね。分かった。
それにしても。昨日のあの、パパ攻撃は何だったんだろう。何かあったんだろうか。ちょっと気になる。いや、結構気になる。でも。
こうやって何だかんだと言い合える相手がいること、おはようと言い合える相手がいるって、幸せなことなんだなとつくづく思う。ありがたいことだ。
海と川とが繋がる場所を渡る。ふと立ち止まる。橋の下に集う海鳥たちの姿がちらほら。毛づくろいをしているもの、ふんわりと浮かんでいるもの、それぞれに。燦々と降り注ぐ陽射しを浴びて、彼らの体躯は白く輝く。
さぁ今日もまた一日が始まる。私はまた歩き出す。


遠藤みちる HOMEMAIL

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