見つめる日々

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2010年03月21日(日) 
雷鳴で目を覚ます。何だろう何だろうと外を見やれば、とても窓を開けられるような状況ではなく。唖然とする。何だこの風は、何だこの雨は。あまりの勢いのよさに私はただ呆然とする。見事としかいいようがない。確かに昨日の昼間から風は強かった。でも夜ちょっと眠っている間にこんな具合になるとは誰が想像しただろう。
顔を洗っている最中にも、雷鳴が轟く。私は視界に入る白い光に一瞬びっくりし、でもその直後響く雷鳴に、うっとりする。実は私は雷鳴がとても好きなのだ。光そのものより、その後響く音が、好きなのだ。
音に耳を済ませながら、お湯を沸かす。生姜茶を入れる。お茶というのはどうしてこうも目が覚めるのだろう。それがあたたかいお茶だと、まさに体中を駆け巡るといった具合で。すっと目が覚める。気持ちがすっきりする。
とりあえず朝の仕事を終わらせなければ。そう思いながら椅子に座る。が、本当は外が気になって気になって仕方がない。本当は外をずっと眺めていたい。そんな気分。

友人が突如、言う。私はあなたと会いたいと思うのだけれども、あなたにとって私と会うメリットって何? 吃驚した。何を言い出すのかと思ったら。そんなことは考えたことがなかった。どういうメリットがあるのか、と問われても、だから正直困る。彼女と会いたいと思うことに、そんな、メリットデメリットなど考えたことはない。
それを正直に伝えると、彼女がとつとつと話し出す。親密な関係を持ったことがこれまでほとんどなかったから、よく分からないの。だから私が言う。私は、あなたがあなたであってくれればそれでいいんだよ、と。それ以上でもそれ以下でもない、あなたがあなたであってくれること、それでいいんだ、と。
彼女は、役割を与えられて生きてくる場面が多かったのかもしれない。たとえば両親との間での仲裁の役目、たとえば友人といるときには冷静な判断をもつ大人としての役目、など。だから、役割など何もない、まっさらなあなたであればいいということが、逆に伝わらないのかもしれない。しっくりこないのかもしれない。
そもそも、あなたに赦してもらえる、受け容れてもらえるとは、思ってもみなかった、ただあの時、それまでずっと謝りたいと思っていたから、せめて自分の中の区切りとして、今しかないと思ってあなたに謝った、と彼女が言い出す。だからあなたに突っぱねられることを想定して声を掛けたんだ、と。それが、あなたが受け容れてくれてしまったから、逆に驚いたんだ、と。
確かに。彼女と私との間には、いろいろなことがあった。でも、何だろう、かつての彼女を私は知っていたけれども、その彼女が謝ってくるということは、彼女が営んできたこれまでの時間があったわけで、その中でどんな思いで私に謝ろうと思ったのか、私は聴くことができるなら聴いてみたいと思った。離れていた時間、彼女がどんな時間を過ごしてきたのか、私は知りたいと思った。その上で、それでもだめなら、その時改めて考えればいい、と。
謝る、ということは、そんなたやすいことじゃぁない。しかも、彼女と私の間で、謝る、ということは、本当に、簡単なことじゃぁなかった。だからこそ、それでも彼女があの時口にしたごめんねという言葉は、私には大切に思えた。だから私は、今大事に思えるということを、まず大切にしようと思った。
彼女がぽつぽつと話し続けている。私は、自分が性犯罪被害者なんだと思うことができなかった。あの体験を経ても、自分が悪い、自分に非が在るとしか思えずにずっと長いこと来たんだ、と。今もまだ、心からそう思うことができないでいる、と。
私は、自分も同じであったことを思う。長いこと、自分が悪いとしか思えなかった。誰が何をどう言ってくれても、結局のところ私が悪いのだ、と、そう思い続けてきた。自分が被害者だとは、堂々と言ってのけられなかった。すんなり自分が被害者だとは、思えなかった。
今思うと、そう考えることの方が、私には親しかったのだ。相手を責め罵るよりも、自分を責め罵ることの方がずっと、私には親しいやり方だった。その方が楽だったんだと思う。だから私は、気づいたらもう、そうして自分を責めていた。
でも。
それでは何も解決はしなかった。泥沼に嵌るだけだった。自分を消去したいと自分自身を切り刻み、でもそれで実際自分を消去できるわけでもなかった。そうは問屋が卸さなかった。
そして、ずたぼろになって、もう血みどろになって、そうしてようやく改めてあの出来事を省みたとき、ようやく、あぁ私は被害者だったのだ、と、間違いなく性犯罪被害者だった、と、思うことができるようになった。それまでになんと、長い時間がかかっただろう。
そうなった今だって、不安定になると、ふとしたときに、私は被害者だけれど、でも、やっぱり私にも悪いところがあったんじゃぁないか、と思うことが、在る。そうやって何処までも何処までも自分を責めて、自分を苛めて、自分をどうにか納得させようとしているところが、在る。多分私が生きている限り、その堂々巡りは続くんだろう、とも思う。
彼女は、こんなこと話したら、あなたに軽蔑されるのではないかと思った、と言う。だから、軽蔑なんてしないし、間違いなくあなたは被害者なんだよ、と伝える。私も長いこと、自分が悪いと自分を責めていた時期があったよ、と。そう伝える。
言えることを言えるだけ言って、脱力した彼女の表情は、ぽかんとしていた。私はただ、それを見つめていた。
受け容れられるようになるまでには、受け止められるようになるまでには、まだまだ時間がかかるかもしれない。でも、今そうやって長い時間を経てそこに辿り着いたことは、とてもとても意味のあることだよ、きっと、と、私は心の中、呟く。

「宗教的な精神とは、その中に何の恐怖もなく、それゆえどんな信念もない、あるのはあるがままの実際のものだけという精神の状態のことです」
「観察者が観察されるものであるとき、その中に時間の間隙が全くないとき、そのエネルギーは最高のレベルにまで高められます。そのときそこには動機をもたないエネルギーがあり、それはそれ自身の行動の水路を見出すでしょう。なぜなら、そのとき「私」は存在しないからです」「私たちが年を取っていても若くても、生の全プロセスを異なった次元へと変容させることができるのは、今です」「あなたの人生、あなた自身、あなたの卑小さ、あなたの浅薄さ、あなたの冷酷さ、あなたの暴力、あなたの貪欲さ、あなたの野心、あなたの日々の苦悩と果てしもなく続く悲しみ―――それがあなたが理解しなければならない当のものであり、地上の、あるいは天上の誰も、あなたをそこから救い出すことはないのです。あなた自身以外には誰も」
「あなたがあるがままの自分を知るとき、あなたは人間の努力、欺瞞、偽善、探求の全構造を理解するのです。これを行なうためには、あなたは骨の髄まで自分自身に正直でなければなりません」「どうかそのシンプルな事実そのものを理解してください。それは差し招くことも追い求めることもできないものなのです」
「完全な否定―――それは情熱の最高の形態です―――を通じてのみ、愛であるそのものは姿を現します。謙虚さと同じく、あなたは愛を培うことはできません。謙虚さは葛藤が完全に終わるとき出現します。そのときあなたは謙虚であるとはどういうことかを決して知らないでしょう」「あなたが自分の精神とハート、神経と目、あなたの存在全体を、生き方を発見し、実際にあるものとそれを超えるものとを見ることに捧げ、あなたが今生きている生を完全に、全的に否定するなら、醜悪なもの、残忍なもののまさにその否定の中に、他のものthe otherが姿を現すのです。そしてあなたは決してそれを知ることはないでしょう。自分が静まっている、自分が愛していると知る〔=意識している〕人は、愛とは何であるか、沈黙とは何であるかを、知ってはいないのです」

短い眠りから覚めた友人が、言う。やっぱり人のぬくもりや息遣いがそばにあるっていいね。私も応える。そうだね。
バスに乗る彼女を見送り、私は自転車を走らせる。雨は上がった。風もずいぶん止んだ。もう太陽が現れ、陽射しが燦々と辺りに降り注がれている。
あちこちにできた水溜りを避けて走る。公園に立ち寄ると、雨で水量が増えたのだろう、池がたぷたぷと揺れている。風によって生まれる波紋が、次々と浮かんでは消えてゆく。一瞬たりとも同じ文様は、ない。
大通りを渡り、埋立地へ。昨日訪れた美術館はしんとそこに横たわり。私はその脇を走る。モミジフウの樹もまだ大きく揺れ動いている。上空の方が風が強いのだろうか。
海と川とが繋がる場所で、鴎が何羽も大きく旋回している。輝く白い体躯、さんざめく波の文様。眩暈がしそうなほど眩しい。
さぁ今日も一日が始まる。今日という一日を思い切り、呼吸してゆこう。


遠藤みちる HOMEMAIL

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