2010年03月22日(月) |
ぱっちりと目を覚ます。欠片さえ夢を見ずに眠ることができた。足の疲れも一気に抜けた。さっぱりとした気持ち。眠ることがほとんどできなかった時期には味わうことのなかった感覚。 もう外はずいぶん明るくなってきている。きれいに晴れた空。水彩絵の具の、青を深めた紺色を伸ばしたような、そんな空の色。美しい色。その空に薄く、広がる雲。ここから見るとちょうど手のひらサイズ。ふわりと、まるでレースを敷いたように広がっている。それにしても冷えている。空がこんなに美しいのは、そのせいなのかと思える。冷え込んだ空の色は、しんしんと静まって、凛と張り詰めている。 その空の色に紫色を少し混ぜたような具合で、イフェイオンが咲いている。花盛りの鉢の隣、ようやく一つ、花がついた。これで二つの鉢とも花咲いた。なんだか嬉しい。まだ花びらを開いていない、首を折り曲げた花芽。今日にも咲くんだろう、そんな気配。その向こうでムスカリが咲いている。もうそろそろ花の盛りも終わりなのかもしれない。思い切り咲いている。 ミミエデンの新芽を凝視する。やはりまだ粉を噴いている。私はまた指でそれを摘む。ただひたすらに摘む。ごめんね、という思いと、ほんの少し、またかという思いと両方を持って。でも諦めない。彼女が生きている限り、諦めない。いつか花芽をつけてくれることを、いつかこの病が治ってくれることを祈って。 ゴロと、それから珍しくミルクが起きている。おはようミルク、おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロはその声を合図に、回し車を思い切り回し始める。音もなく回る回し車。音もなく走るゴロ。こういうとき、彼女は一体何を思っているんだろう。喋らないゴロたちの心を、いつも思う。どんなことを思っているんだろう、どんなことを感じているんだろう。不思議でならない。言葉が交わせないって、こういうことなんだな、と、改めて思う。娘が言葉を交わすことのできる相手で、本当によかった。 ミルクは扉の入り口にがっしと齧りついて、がしがし音を鳴らしている。私は扉を開けてやる。彼女は自分で出てくるから、それに任せる。出てきた彼女を手のひらに乗せ、背中を撫でてやる。ほんのりと、手のひらに乗るぬくもり。 お湯を沸かし、お茶を入れる。今朝も生姜茶。この後で、紅茶を飲もうと決める。先日買ってきた、紅茶葉にローズマリイやラヴェンダーの混ざったもの。香りが気に入って買ってみた。どんな味がするんだろう。楽しみだ。
学校のノートの整理に勤しむ。もうすでに記憶の彼方に消えているものが幾つも出てきて焦る。覚えたつもりだったのに、すっかり忘れていた。見て書いてみれば、すぐに思い出せはするのだが、それでも。 あわせて、新たに届いた本を開いてみる。交流分析の本を二冊と表現アートセラピーの本。どちらもそれぞれ、最初の部分を読んでみる。交流分析はさすがにすっと入ってくるのだが、表現アートセラピーの方がちょっとつっかえる。まだまだこれからだなと思う。
友人の言葉がふと心に浮かぶ。あなたは強いんじゃなくて、いつも強くあろうとしてるんだよね、と、そう言っていた。 そう、強いなんて冗談でも言えない。私は弱い。いつだってびくびくおどおどしている。そういう自分が分かっているから、そしてできるなら強くありたいと思うから、そう在ろうと努力はしている。 それなのに、どうしてあなたの周りの人は、あなたをねえさんとか姐御って呼ぶ人が多いのかしら。彼女はそうも言っていた。そう言って笑っていた。 確かにそうだなぁと思う。どうしてだろう、どうしてそう言われるのだろう。不思議だ。私が年上だからなんだろうか。多分そうなんだろう。 同時によく、あなたは強いねと言われる。それも事実だ。一時期、そう言われることに抵抗を持った。どうしてそんなこと言われなくちゃならないのと思った。その言葉に対して嫌悪感さえ抱いた。でも。 なんだかもう、そんなこと、どうってことないように思える。おかしなものだ。 なんというか、人にそう見られることが、辛かったのだ。あの頃は。私は努力してこうしているのに、それをまるで当たり前にやっているように言われることが、辛かった。しんどかった。きっとどうして分かってくれないのという思いもあったんだろう。 でも何だろう、そんなこと、どうってことないように思えてきた。思ってもらえることもまた、何か意味があるんだろう。そう思えるようになってきた。分かってもらわなくてもいい、というわけじゃない。分かってもらえたらもちろんそれはとても嬉しい。でも。 そういうことばかりじゃぁないよなぁとも思う。伝わらないことのなんと多いことか。伝わらなくて或る意味当たり前、だから伝わったとき、とても嬉しい。そんな具合、か。 分かってもらいたい、と、努力はするけれど、それで伝わらなかったからとて、どうして相手を責められよう。そもそもが違う、異なる人間同士なのだ。培ってきたものが違うのだ。だからこそ、伝わったそのときが、嬉しいのだ。 彼女に言われた言葉を思い出しながら、そんなことを思う。そして、少なくとも彼女がそうして見ていてくれることを、本当にありがたいと思う。そういう人がひとりでもそばにいてくれるということ、本当に幸せなことだと、思う。
明日為す、交流分析の、エゴグラムをコピーする。私はこれを何処までちゃんと伝えることができるだろう。そのことが心にあって、或る意味緊張する。でも、きちんと相手に伝えられるといい。役立てられるといい。
お財布と相談し、ついでに自分の体調と相談し、結局、午後、友人の見舞いに出掛けることにする。駅に着くと、強風のため一部の電車が運休とのこと。ちょうどそれに乗ろうと思っていたから困った。さて。遠回りになるけれども、別のルートで行くしかない。 電車の中本を読もうと思ったのだが、うまく活字が入ってこない。こういうことが時折ある。活字が全く読めなくなるのだ。字があることは分かる。字がそこに在ることは識別できる。しかし、文章としてそれを理解することが全くできなくなるのだ。 こうなると、しばらく活字を辿ることは無理。諦めて本を閉じる。そうして外の景色を見やる。ぐいぐい流れ往く車窓の景色。ふと、見慣れた街景を見つける。昔本屋の営業をしていた頃、この街にはさんざん来た。これでもかというほど歩いて回った。そしてまたここは、自分が産まれた街でもある。 駅前に建つ大学病院は、いつだったか建て替えられて、あの古いぼろぼろの建物じゃぁなくなってしまったのがちょっと寂しい。もう私の産まれた場所はないのか、と、そんなことをふと思う。 ホームに沿って、川が流れている。川は暗緑色をして、滔々と流れている。私がよく見る川とは川幅も違えば流れる様も違う。この川はゆっくりゆっくりと、呟くように流れている。 ようやく辿りついた病院。私は近くのコンビニで飲み物と食べ物を適当に見繕い、病室へ向かう。彼女はちょうどコンピューターに向かっているところだった。 脛を骨折したといっていたから、あぁ娘と同じで太腿から全部ギブスをしているのかと思っていたら、そうじゃぁなかった。膝下を巻くだけで済んでいるらしい。よかった。それだけでもよかった。太腿からのギブスじゃぁ、トイレに行くのも本当に難儀だ。 最近あったことを、ちらほらと交わす。彼女は、先日電話で話したときよりずっと落ち着いており。私は安心する。怪我をしたのは大変なことだったけれど、ちょうどいい休憩になっているんじゃないか、と、そんなことを思う。走り続けることなんてできない。鳥が飛び続けることができないように。飛び続けるためにもどこかで休まなければ無理なんだ。それはきっと人も同じ。 二十年、探し続けてきた友人と、ようやく再会できたのだという彼女は、その友人の話をあれこれ聴かせてくれる。私はその話に相槌をうちながら耳を傾ける。 二十年。そう、私たちの人生はもう、そういう単位を数えられるほどになっている。早いものだ。二十年前私たちは学生だった。まだ青々とした学生だった。まさに思春期と呼ばれるような時期だった。あれから二十年、私たちはちゃんと年の分だけ時間を重ねてくることができているだろうか。ふと思う。 娘がそうであったように、家に帰ってから、友人も大変だろう。退院が決まったらまた連絡をと言葉を交わし、別れる。
夜、ひとりで時間を過ごしながら、あれやこれや思いめぐらす。そしてふと笑う。「恋してないの?」。友人の言葉だ。そういえば恋してないねぇと応え、私も笑ったのだが。自分にこんな時期があるとは、想像もしてなかった。独りで居ることが、全然苦じゃないのだ。むしろ楽しい。独りを寂しいなんて思っていた頃は何処へいったのか。 安売りしていた苺をはぐはぐ食べながら、自分の中の穴ぼこについて思う。私のこの穴ぼこはいつ頃できたんだろう。多分それは思春期のあの頃で。大きく亀裂が入ったのは多分、あの母の言葉で。あれやこれや数珠繋ぎに思い出される出来事。走馬灯のように脳裏を巡る。 穴ぼこは生涯穴ぼこのままかもしれないが。それもそれで、いいのかもしれない。穴ぼこがここにあることを、私はもう知っている。そしてそれに寄り添うことが必要なことももうわかった。四六時中それを見つめることはできないけれど、自分の調子を見計らって、それと向き合うことは、多分、できる。 サミシイカナシイを食べて生きているようなその穴ぼこ。私の一部。これらとも私は、つきあっていくんだ、と、改めて思う。
朝の仕事を早々に切り上げ、家を出る。待ち合わせにはまだ遠いけれど、できれば早めについて、準備をしておきたい。 バス停に立つと、南東からの朝日が真っ直ぐ伸びてくる。眩しい陽射し。向こうには高い、埋立地のビル群が見える。まだ朝の喧騒には早い時間、彼らはしんと静まり返っている。 バス停から小さく音楽が流れ、バスがやって来ることを知らせる。バスに乗っているのはたった三人。考えてみれば今日は祝日。 窓の向こう、見慣れた景色が流れてゆく。そういえば、行きつけの喫茶店のアルバイトさんが、来月でアルバイトを辞めるんだと言っていた。学校の先生になるためにも、大学院で勉強を続けたいのだそうだ。その勉強のため、アルバイトを辞めるのだという。小学校の先生か。大変だろう。でも。今小学生の娘を持って思う、先生というものがどれほど大きい存在か、を。いい先生に出会えれば、それだけ世界が広がる。子供にとって、言ってみれば、先生というのはひとつの、世界への扉だ。素敵な先生になってくれるといい。そう思う。 バスを降りて電車に乗り換える。ホームは閑散としており。冷たい冷気に首をちぢこませている人たち。でもきっと、今日は昼間はあたたかくなるんだろう。空は高く高く。澄み渡り。 さぁ今日も一日が始まる。 |
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