見つめる日々

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2010年03月24日(水) 
娘に、本をそっと取り上げられたところまで覚えている。それに対して「ありがとう」と言ったのだった。でもその後、かくりと寝入ってしまったらしい。目を覚ますと、隣にぴたっとくっついて、娘が眠っていた。娘より早く寝入ってしまうとは何という不覚。
起き上がり窓際に立つ。雨だ。しとしとと雨が降っている。昨日の夜は風とあいまって右に左にと降っていた。細かな雨粒であったが、目を閉じると、くっきりとその音が耳に響いてきたのだった。アスファルトの上で弾ける雨粒が、白く輝いていたのを思い出す。
今雨はだいぶ小降りになってきたのか、まさにしとしとという具合。ベランダに出て手を差し出す。手のひらに落ちてくる小さな雨粒。ぽちゃっという音さえ聴こえてこないほどの小さな雨粒。私の手のひらの上でその粒は潰れ、瞬く間に私の手のひらの温度と同じになってゆく。
テーブルの上には白薔薇と黄色い水仙。花それ自体が灯りのように、ほんのり点っている。今少し迷っているのは、白薔薇を挿し木にするかどうか。するなら早くしないといけないと分かっているのだが。友人は、できるだけ茎の長い状態で、薔薇を贈ってくれた。でも、残念ながら葉は三枚きり。そのところを挿し木してやらないといけない。そうなると、ずいぶん首が短くなってしまう。それが、迷いどころ。短くしたからとて花を楽しめないわけではないのだけれども。さて、どうしよう。今日一日、迷うことにしよう。
ゴロが今朝も起きている。巣箱にぽてっと体を入れて、とうもろこしを齧っている。おはようゴロ。私は声を掛ける。とうもろこしを齧る仕草がかわいくて、しばらくそれを見つめている。すると、気配に気づいたのか、ゴロがこちらに手を伸ばし始める。食べてていいんだよ、と言ってみるのだが、もう彼女の興味はこちらに移ってしまったらしい。悪いことをした、と思う。食事の邪魔をしてしまったか。ただでさえ食の細いゴロ。食べてくれると嬉しいのだけれども。
顔を洗い、鏡を覗く。鏡の中、白っぽい顔がぼうっと浮かんでいる。目を閉じてからだの内側に意識を向けてみる。こんにちは、穴ぼこ。今朝も会ったね。私は穴ぼこに向かって挨拶をする。穴ぼこは、でも、静かで、ざわざわとした感じもなく、ただそこに在るといった具合だった。まだ動き出す前なのだろうか。私はただその感じをじっと味わう。それから、微妙な耳鳴りがすることに気づく。耳の中できぃんという音が、まっすぐに伸びている。この音は何処からやってくるのだろう。不思議な感じ、ここしばらく忘れていた、そんな感じ。
そうして十分、十五分、感じを味わった後、私はお湯を沸かしに部屋に戻る。自然に手が伸びていたのは生姜茶。選ぶ前に手が伸びていた。生姜の香りがよく分からないが、口に含むと、生姜の味とほんのり甘い甜茶の味が口の中に広がってゆく。
雨は降り続いている。今日一日、雨なのかもしれない。そんなことを思いながら、私は椅子に座り、朝の仕事に取り掛かる。

図書館に行きたい。娘が突然言い出す。図書カードを作りたいんだという。それじゃぁということで、私たちは自転車を飛ばして坂を上って下って図書館へ向かう。しかし。今日は休館日だった。がっくり。娘は見るからにがっくりと肩を落とし、へこんでいる。それじゃぁ古本屋さんへ行こうか、ということになり、さらに坂を下って川を渡る。川を渡るところで私たちは一瞬自転車を止める。川を渡ったところにすぐ、小さな三角形をした公園がある。そこには鳩がこれでもかというほど集っており。娘が言い出す。ママ、鳩だよ。うん。ママ、やでしょ。うん。じゃ、私が先に走っていってあげるから、ついておいで! 分かったー。いや、娘が先に走ったからとて鳩がどうにかなるわけではないのだが、私はそういう娘の気持ちが嬉しくて楽しくて、娘の言うとおりにしてみる。娘は、公園の鳩の群れの真ん中をわざわざ突っ切って走る。こりゃ公園に集って休んでいる人にとっては迷惑至極だと思いつつ、止める間もなく彼女は突っ切る。私は慌てて彼女の後について走る。鳩の群れは見事、空に散っていった。
豆腐屋は一仕事を終えた後らしい、白い割烹着を来た主人が裏口で煙草をふかしている。肉屋の裏口は忙しく出入りする人たちでごった返しており。その隣の画廊では、花束がちょうど届けられたところ。
そんな光景を横目に、私たちは走り続ける。そうして辿りついた古本屋。娘は早速児童書のところへ。一方私は、古本屋ではなくその近くの本屋に入る。心理学関係の著書の棚へ。あまり充実しているとは言い難い棚なのだが、ないよりはまし。何冊か手に取ってみる。カール・ロジャース関係の本をぱらぱらとめくる。でも一番気になったのは、フォーカシング指向のアートセラピーの著書。立ち読みはいけないと思いつつも、ぱらぱらと開き、目に付くところを読んでみる。気になる。気になるが、これは、フォーカシングについてまずしっかり抑えてないと、読んでも意味がないかもしれない。しかもこの本はかなり高い。欲しい、でも高い、そのところをぐるぐる回り、結局、しぶしぶ棚に戻す。今のお財布状態では、とても買える代物じゃぁない。また今度縁があれば出会うだろう、ということで。
でも。このところちょっと活字拒絶の状態に陥っている自分がいる。それが気がかり。その状態から早く脱したい。脱するためにも、全く関係ない本を読んでみるのもいいかもしれない、と、文庫本のコーナーに移動する。少し来なかった間に、どんちゃか新刊が出ているのだなぁと、平積みしてある本を見て思う。いつも読む作家の新刊が、次々出ているようだ。数冊手にとってぱらぱらとめくってみる。めくってはみるのだが、やっぱり、思うような速度で活字が入ってこない。本が読みたい時に限って、こういうことになる。困った。
結局、何も買わず、本屋を出る。娘を呼ぶと、娘にも目的の本は何も見つからなかったらしい。二人して収穫なし。このまま帰るのももったいないねぇと言いながら、通りを歩く。平日だが、この通りは相変わらずの賑わい。でも何だろう、みんな思い思いにゆったりとしているから、人が多くても苦にはならない。
老舗の和菓子屋の隣に、ペットショップがしばらく前から出来た。そこに立ち寄り、私たちはこの子がいい、あの子がいいと言い合う。娘は犬、私は猫。好みが微妙に異なる。
そうしてひとしきり散歩をした後、私たちは坂をひぃふぅいいながらのぼって家に帰る。図書館はまたの機会に。きっと。

ねぇママ、ママってなんで勉強するの? なんでって? だってさぁ、Sちゃんのお母さんもAちゃんのお母さんも、勉強なんてしてないよ。ふぅん、そうなんだぁ。なんでママはするの? ママは勉強したいからするの。大人になっても勉強ってやらないといけないの? 別にそんなこともないんじゃない? ママはしたいからしてるだけだよ。私、大人になってまで勉強したくないよ。そうなんだぁ、まぁ今は、何でもかんでも勉強しないといけない状況だから、そういう状況でやる勉強ってあんまり楽しくないかもしれないね。ママは楽しいの? うん、楽しい。自分でしたい勉強をしてるから、楽しいよ。そういうもんなの? そういうもんだね、うん。変なのー。
そうして私たちは、それぞれにノートをひろげ、勉強を続ける。彼女は理科の、星座のところ。私はアートセラピーの、さわりの部分。

塾に出掛けた娘から、途中でメールが入る。「あのね、前に話した、にらんでくる男の子がね、舌打ちするから、なんか言おうかと思ったけど、やっぱりやめて放っておいたよ」。そういえば以前、娘が話してくれた。隣の席の男の子が、やたらに睨んでくるのだ、と。気になるけど、今のところは放っておいてるんだ、と。
ぼんやり思いめぐらす。娘は眼光が鋭いところがある。彼女は全く睨んでいるつもりはないのだが、相手からすると睨まれていると取られることが多々ある。もしかしたらその男の子にとってもそうなのかもしれない。もしくは別の理由があるのか。それとも、その男の子も娘のように、ただじっと見つめているだけの話なのか。
分からないから、私は、そかそか、とだけ返事する。娘が自分で決めて自分でそうするなら、それが一番いい。その結果どうなるかはまた別。自分で決めて自分でする、というところが、大切なところ。それを私がどうこう言って左右するのは、なんだかおかしい。
すると帰り道の時間、再びメールが入る。なんかね、がんって肩にぶつかってくるんだよね、ぶつかってきても何も言わないの。だから私も何も言わないで無視した。私は思わず苦笑する。どっちにしても、それは娘の世界で起こっている出来事。私はただ、それに寄り添うだけ。
傘を持たずに出掛けた娘は、少し髪の毛を濡らして帰ってきた。バス停がすぐ近くでよかったと思う。沸かしておいた風呂にすぐ入れる。風呂場からは、とてつもなく大きな歌声が響いてくる。風呂場は彼女にとって一つのステージのようなもの。自分の思うとおりに演じ、披露できる場。私はただ、それに耳を傾けている。

娘の塾用にお弁当を作る。昨日のうちに揚げておいた唐揚げとブロッコリー、苺をお弁当箱に詰め込んで、あとは雑穀米おにぎりとゆで卵。ちゃんと持っていくんだよ、と娘に声を掛けると、ココアを頭の上に乗せて娘がはーいと応える。
ふと見ると、ベランダの手すりに珍しく雀が止まっている。雨宿りだろうか。私はその姿にじっと見入る。ちょうど雨の当たらないところを彼らはちゃんと知っているようで。毛づくろいを始める雀二羽。
友人からメッセージが入っている。娘さんを病院に連れて行ったら、もう病院の必要はないし、もちろん薬も必要ないといわれたとのこと。今娘さんとの関係が思うようにスムーズにはいっていない彼女にとって、それは頼りにしていたところを一つ失ったかのように思えると。辛い、と記されている。
私は彼女のメッセージを繰り返し何度も読んだあと、頭をまっさらにして考えてみる。病院が必要ないといわれたことは、娘さんにとってどれほど嬉しいことだろう。まずそのことを思った。もともと病院や服薬に対して抵抗を抱いている娘さんだった。その娘さんにとって、もう必要ないですよと言われたことは、とても嬉しいことだったんじゃぁなかろうか。それからもうひとつ考えた。自分がその娘さんの年頃、親とどういう関係を築いていただろう、と。
もうその頃、私は、父母とほとんど話をしなかった。ようやく言葉を交わしたかと思うと、それはお互いを傷つける言葉ばかりで。今思うと、どれほど父や母を私の言葉の刃によって傷つけただろうと思う。父母の言葉で傷ついた私ももちろんいたわけだが、同時に、私の言葉によって傷ついた父母がそこに在ただろう、と。そういう年頃だった。言葉を刃としてしか振り回せない、そういう時期だった。そんな気がする。
生まれてきたこと、生きていること、死というものに対して意識的になっていた時期でもあっただろう。大袈裟に言えば、世界中のすべてが敵に近かったような気がする。慄くハリネズミのように、全身の毛を逆立てて、世界に対峙していた。そんな頃だった気がする。
それを考えると、今、彼女が娘さんとスムーズな関係でないことは、ごくごく自然なことのようにも思える。そういう時期も、あるんだ、と、思う。それを、すべて自分の責任だと取る必要はない。決してそんなことではない。今はそういう時期なのだ、と捉えられたら、少し変わるんじゃなかろうか。
人との関係なんて、どうとでも変化してゆくもの。いいときもあれば、悪いときもある。スムーズにいくばかりの関係なんて、あり得ないんだと思う。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。傘をさす間もなくバスがやって来て、私は飛び乗る。雨が朝一番の頃より少し強くなってきたかもしれない。
埋立地、雨にけぶる景色を窓の向こうに眺めながら、思う。世界中が敵だった、その中でも父母は最も強力な、目の前の、明らかな敵だった。いとしくていとしくて、いとしいからこそ憎悪もし。そういう存在だった。
私の娘にとっても、私がそういう存在になる時期が来るんだろう。やがてそういう時期も来るんだろう。その時私はどんなふうにそれを受け止めてゆくだろうか。
しとしとぱつぱつ降る雨の中、私は歩く。空は薄い鼠色で。新緑も今日は何処か眠っているような、そんな色で。
さぁ今日も一日が始まってゆく。しっかり歩いてゆかねば。


遠藤みちる HOMEMAIL

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